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東西決戦の関ヶ原の戦いと風向から見た日本人

饒村曜気象予報士
石田三成(提供:アフロ)

「北東の風」や「南西の風」のように、東西南北を組み合せて表現する場合は南北を先に表現していますが、このような表現は明治時代以降の表現です。

秋雨の東西決戦、関ヶ原の戦い

慶長5年9月15日(1600年10月21日)、徳川家康率いる東軍7万5000人と石田三成率いる西軍8万2000人との間で天下分け目の戦いが始まります。石田三成が先手をとり、夜間、秋雨に濡れながらの長距離移動で兵力を関が原に移動させ、有利な布陣を敷いて家康を待ちかまえましたが、短い休息で戦った西軍は、午前中に互角の戦いをするのが精一杯でした。もし、秋雨がなく、西軍主力が元気な状態で午前中に押しまくっていたら、小早川秀秋などの裏切りもなく、西軍が勝っていたかも知れません。

関が原の戦いのように、日本で政権をめぐる戦いは、ほとんどが東西決戦でした。

また、日本の首都は奈良や京都にあり、主な交通路は東西方向でした。加えて、農耕民族である日本人は太陽を意識して生活しますので、太陽が昇る東と、沈む西が重視されたと考えられます。

昔は、東西を先にしていた日本人

日本では昔から、東西南北を組み合せて方角を表現する場合、東西を強く意識し東西を先にする表現をしています。昔の記録でも、十二支を使わない表現の場合は「西北の暴風が甚だしい」というように使われていました。

今でも、東北地方、東南海地震、西南戦争、都の西北(早稲田大学)など、東西が先に来る言葉が残っています。これは、日本人の感覚に東西を意識する歴史的な経緯があったと考えられるからです。

なお、十二支の表現では、図のように十二支順につけられていますので、北東方向は丑寅の方向(丑の方向と寅の方向の間)、南東方向は辰巳(巽)の方向というように東西が先ではなく、干支順です。

図1 十二支の風向の表現
図1 十二支の風向の表現

世界を飛び回る人は南北を重視

長距離を移動する狩猟民族や、世界を股にかけて航海している人々にとっては、南北を示す磁石や北極星や南十字星が無事に目的地に達するために必須でした。

このため、南北という意識を強く持ち、Southeast、Northwestなど、南北を先にした表現が使われています。

南北先行は気象観測法が翻訳されてから

明治になり、日本で気象観測を行なうようになり、明治13年(1880 年)に気象観測法が刊行されています。

これは明治5年にアメリカのワシントンで刊行されたものを、保田久成が訳しかものですが、ここで、Southeastは南東、Northwestは北西というように言葉の順に訳されています。

南北先行の考えが日本に持ちこまれたのです。

日本独白の観測法は、暴風警報や天気予報を始めたEクニッピングが著したもので、明治15年の発行ですが、ここでも南北先行の風向が使われています。

こうして南北先行の風向が気象業務に採用され、一般国民へは天気予報を通じて定着してゆきました。

風向の表現

図2 風向の表示
図2 風向の表示

風向は、風の吹いてくる方向のことですが、観測では16方位(北、北北東、北東、東北東、東…)が使われます。これに対し、予報では、8方位(北、北東、東、南東、南、南西、西、北西)が使われます。予報には16方位で表現するほどの精度がないからです。

今では、あたりまえのように使われている「北西の季節風」という表現ですが、明治時代の翻訳の仕方によっては「西北の季節風」という表現になっていたかもしれません。

図の出典:饒村曜(2004)、風と雨の事典、クライム。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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