太平洋戦争中は天気予報と台風情報は国民に知らされなかった
天気予報などの気象情報は、戦争遂行のためには必要不可欠な情報です。このため、戦争になると、少しでも自国を有利にするため、自国の気象情報を隠し、相手国の気象情報の入手をこころみます。これは、昔の話ではなく、今でも状況は同じです。世界各地の気象情報が自由に入手できるというのは、平和の証なのです。
太平洋戦争中の気象報道管制
真珠湾攻撃が行われた昭和16年12月8日の午前8時、中央気象台の藤原咲平台長は、陸軍大臣と海軍大臣から口頭をもって、気象報道管制実施を命令されています(文書では8日の午後6時)。
これを受け、藤原台長は同日、各地の気象官署長に対して、次のような訓令をだしています。電文の中で、暗号など、わかりにくいところをカッコ内に記しています。
ホンヒ エイベイレウコクニタイシ センセンフコクニアラセラレルニツキ ゼンキセウカンショハ カネテ 5ンエ(準備)セルトコロニシタガヒ タダチニセンジタイセイニイレリ キショクハ ブカヲトクレイシテ 2カナ(観測)5ツレ(通報)ノ バンゼンヲキシモツテ ヒツセウユウダン(必勝友軍)ノ タイゲウ(大業)ニ キヨセラルベシ
こうして、気象無線通報は暗号化され、新聞ラジオ等の一般広報関係はすべて中止されました。ただ、例外として、防災上の見地から気象報道管制中でも、暴風警報の発表は、特例により実施されることになっており、全てが禁止されたわけではありません。しかし、いろいろな許可や了解が必要であり、実質的には行われないのと一緒でした。このため、昭和17年8月27日に長崎県に上陸した台風により山口県を中心に1158名が死亡するなど、台風が近づいても十分な対策がとれずに被害を大きくしてしまった、ということが多かったと言われています。
米空軍は気象観測結果を平文で打っていた
太平洋戦争末期の中央気象台の天気図の原図をみると、日本軍の撤退や通信の不良などから、天気図で観測データが記入されていない範囲がどんどん広がっていますが、日本の南海上に米軍による飛行機観測データの記入が増えています。昭和20年7月29日から8月2日に大型で非常に発達した台風が沖縄本島を通過したとき(図1)、沖縄周辺に密集している米軍に対して元寇時のような神風になるのではと期待されたときもそうでした。しかし、飛行機による台風監視が行われており、台風は神風にはなりませんでした。
図2は、中央気象台(現在の気象庁)の昭和20年8月1日に作成した天気図の原図の一部です。飛行機による観測データには観測時刻も記入されており、この時刻をたどってゆくと、サイパン島を出発し、気象観測をしながら飛来し、西日本上空でUターンして、再び気象観測をしながらサイパン島に戻っています。このことについて、今から30年以上前、私が気象庁予報課で予報当番に従事していたときにベテラン予報官から次のような体験談を聞いたことがあります。
「終戦直前の米軍は、飛行機による気象観測結果を暗号を使わずに送信していたので、この送信を傍受し、天気図に記入して利用していた」
気象観測結果を暗号なしで送信するということは、飛行機の位置が相手に知られてもかまわないということを意味しています。この天気図は、日本付近の制空権をアメリカ軍が完全に握っているということの証明で、それを記入していた人たちの心情はいかほどだったのでしょうか。
終戦直前になると,アメリカ軍は頻繁に飛行機で飛来し気象観測をしていたため,自国民を自然の猛威にさらしてまで実施している日本の気象報道管制は意味をなさなくなっています。
図1、2、表1、2の出典:饒村曜(1986)、台風物語、日本気象協会。