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韓流さながらの北朝鮮新曲――シンガーに抜擢されたのは金正恩氏「お気に入り」女性歌手

西岡省二ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長
ミュージック・ビデオで熱唱するキム・オクチュ氏=「朝鮮の今日」よりキャプチャー

 北朝鮮で6月、金正恩(キム・ジョンウン)総書記や朝鮮労働党への忠誠心を高めるためのふたつの新曲が公開された。ミュージック・ビデオでこの2曲を熱唱したのは歌手のキム・オクチュ氏。金総書記のお気に入りの歌手と噂され、金総書記が観覧した最近の公演でも、キム・オクチュ氏が圧倒的な存在感を見せていた。

◇新たな装いの「ふたつの新曲」

 北朝鮮で最近発表されたのは『私たちの母』『その情に従う』のバラード2曲。歌詞をみれば、前者は朝鮮労働党を、後者は金総書記を、それぞれ讃えるプロパガンダ(政治宣伝)だ。

 北朝鮮の音楽は基本的に、金王朝や党を礼賛する内容である必要があり、歌詞には忠誠心がちりばめられる。メロディーはおおむね、勇ましい調子であったり、単純で親しみやすいものになっている。

 この『私たちの母』でも「白頭の歌を子守歌として歌ってくれ」「母よ、母よ、私たちの母よ、朝鮮労働党よ」と歌い上げられ、『その情に従う』でも「陽の光を抱いて千里万里の道、訪ねてこられる元帥様(=金総書記)」「私たちの元帥様ただおひとりだけ、一片丹心(=真心で)従うでしょう」という詞がつけられている。

 ただ、メロディーとハーモニーが、これまでの楽曲とは大いに異なる。その傾向は『その情に従う』で顕著だ。

 イントロでストリングスが低音で響き、それがドラマチックに盛り上がる。北朝鮮で「敵性音楽」とされるジャズで使われるようなコード(和音)が多用される。

 歌詞を別のものにすれば、韓流ドラマの挿入歌としても使えそうなメロディーだ。

◇全26曲のうち22曲を歌う

 この2曲についてはミュージック・ビデオが作られ、国営朝鮮中央テレビによって公開された。国務委員会演奏団メンバーの伴奏にあわせて、この2曲を、ソロあるいはデュエットで披露するのが、歌手のキム・オクチュ氏だ。

ミュージック・ビデオで熱唱するキム・オクチュ氏(左端)=「朝鮮の今日」よりキャプチャー
ミュージック・ビデオで熱唱するキム・オクチュ氏(左端)=「朝鮮の今日」よりキャプチャー

 キム・オクチュ氏は、金総書記の妻、李雪主(リ・ソルジュ)氏が所属していた銀河水(ウナス)管弦楽団▽金総書記側近の玄松月(ヒョン・ソンウォル)副部長が団長を務めたモランボン楽団や三池淵(サムジヨン)管弦楽団――などで活動した著名歌手。

 韓国・平昌(ピョンチャン)五輪(2018年2月)を契機に訪韓した際、韓国歌手イ・ソニ氏の『Jへ』を熱唱。韓国芸術団が訪朝し、平壌で公演した際にもイ・ソニ氏とのデュエットが実現している。

 キム・オクチュ氏は朝鮮半島の民謡から外国の曲まで、多様なジャンルを器用に歌い上げる実力派だ。

 その存在がクローズアップされたのが、党中央委員会総会(6月15~18日)の際に開催された国務委員会演奏団のライブ。朝鮮中央テレビが6月22日に公開した映像(放送時間2時間20分ほど)をみると、全26曲のうち22曲でキム・オクチュ氏がマイクを握っていて、観覧していた金総書記の拍手を受けていた。この時にふたつの新曲も披露された。

◇金総書記の指示

 ふたつの新曲が、北朝鮮としては斬新なものになった背後には、もちろん金総書記の指示がある。

 金総書記は今年1月の党大会で、芸能活動について「主体性と民族性、現代性が具現された優れた作品を創作」「特色ある公演を活発に展開」などと訓示してきた。これを受け、音楽部門でも、金正恩体制に影響を与えないよう細心の注意を払いながら、新たなスタイルを模索してきたと考えられる。

笑顔を見せながら浜辺を歩く国務委員会演奏団のメンバー=「朝鮮の今日」よりキャプチャー
笑顔を見せながら浜辺を歩く国務委員会演奏団のメンバー=「朝鮮の今日」よりキャプチャー

 新作2曲を紹介するミュージック・ビデオには、真新しいスタジオや録音機材、真っ赤なスタインウェイ・グランドピアノが映り込む。国務委員会演奏団の若いメンバーたちが揃いの白い衣装を着て楽器を演奏したり、リラックスした表情で会話を楽しんだりする場面も盛り込まれ、特に笑顔を際立たせている。

 もっとも、こうした忠誠心を歌った新曲には、食糧難にあえぐ住民を鼓舞して、金総書記への求心力を維持したいという思惑も感じ取ることができる。

 党機関紙・労働新聞は6月26日付で新曲に対する反響を伝え、楽譜も掲載しながら「歌えば歌うほど歌詞と曲に心がひかれる」「みんなの心情をそのまま反映した新しい歌」「歌えば歌うほど、さらに歌いたくなる名曲」と持ち上げ、忠誠心の向上を図っている。

ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長

大阪市出身。毎日新聞入社後、大阪社会部、政治部、中国総局長などを経て、外信部デスクを最後に2020年独立。大阪社会部時代には府警捜査4課担当として暴力団や総会屋を取材。計9年の北京勤務時には北朝鮮関連の独自報道を手掛ける一方、中国政治・社会のトピックを現場で取材した。「音楽」という切り口で北朝鮮の独裁体制に迫った著書「『音楽狂』の国 将軍様とそのミュージシャンたち」は小学館ノンフィクション大賞最終候補作。

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