Yahoo!ニュース

金正恩氏カムバックの時、椅子を引いていた「銃殺」「元カノ」説の元アイドル歌手

西岡省二ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長
「普天堡電子楽団」時代に発売された玄松月氏のカセットテープ表紙(筆者撮影)

 北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が20日ぶりに姿を見せた5月1日の式典では、金正恩体制の経済政策を担う面々とともに、金委員長に密着するように随行する3人の姿が際立った。なかでも、公式報道に名前は伝えられないのに、その姿がいつも“チラ見”させられる側近の女性、玄松月(ヒョン・ソンウォル)氏の絶秒な立ち位置が密かに注目されている。

◇元歌手

 5月2日の朝鮮中央テレビの映像には、金委員長がひな壇で着席する際、さっと背後に回って椅子を後ろに引く玄松月氏の姿があった。玄松月氏はいまや音楽家、軍人、政治家という三つの顔を持つ、金委員長の側近のひとりだ。

金委員長の椅子を引く玄松月氏(左、朝鮮中央テレビより)
金委員長の椅子を引く玄松月氏(左、朝鮮中央テレビより)

 1970年代後半に生まれ、平壌音楽舞踊大学(現・金元均名称音楽総合大学)を卒業したあと、音楽グループ「旺載山軽音楽団」所属の歌手としてデビューした。その後、軽音楽バンド「普天堡電子楽団」に移り、「駿馬娘」という曲を、張りのある声と軽快なリズムで歌い上げて大ヒットさせた。金委員長の指示で2012年に結成された音楽グループ「モランボン楽団」の団長に据えられた。

 韓国の一部メディアは時折、玄松月氏を「金正恩氏の元恋人」を伝え、昇進の背景に私情をはさんでいるのではないかという憶測を伝える。2013年8月には韓国紙が「(北朝鮮の音楽グループの)銀河水管弦楽団関係者十数人が海賊版ポルノ映画を視聴したなどとして、公開の場で銃殺された。その中に玄松月氏も含まれていた」と報じ、その動静が注目されたこともあった。結局、翌14年5月の全国芸術人大会に、玄松月氏がモランボン楽団団長として登場し、金正恩氏への忠誠を声高に表明したことで銃殺説は打ち消された。

 その後は要職に抜擢され、党中央委員と党宣伝扇動部副部長の要職に就き、朝鮮人民軍の軍人としては陸軍大佐の階級にある。また、2018年の平昌五輪の際、北朝鮮の三池淵管弦楽団の団長として韓国を訪問している。昨年12月に金委員長が白頭山を白馬で登った際にも、同じく白馬に乗って同行している。「金王朝の血を引く『白頭血統』でないのに、あの若さで高速出世」「元歌手の党核心幹部への異例の登用」などと特別視されることも多く、いまも金委員長との特別な関係がささやかれている。

◇金正恩体制の経済運営を支える面々

 朝鮮中央通信は金委員長に同行した幹部として、朴奉珠▽金才竜▽金徳訓▽朴泰成▽金与正▽趙甬元――の各氏の名前を順に伝えた。だが、実際にひな壇に着席した際の序列では、朴奉珠、金才竜の両氏に続いて、金委員長の実妹・金与正氏が位置づけられているようにみえる。

 朴奉珠氏は81歳。現在、党政治局常務委員、党中央委副委員長、国務委副委員長などの重要ポストにつき、経済顧問の役割を果たしている。

 金委員長の父・金正日総書記時代の03年9月に首相に就任した。07年初め、国内企業での時給制導入などを提案したことを「資本主義制度の導入をもくろんでいる」と批判されて解任され、地方の企業所に左遷された。だが、朴奉珠氏の経済的手腕を惜しむ声が強く、10年8月に党軽工業部副部長として復帰、金正恩体制となったあとの13年4月に再び首相に抜擢され、19年まで務めた。

金委員長のテープカットに加わった朴奉珠氏(左端)と金才竜氏(右端)=労働新聞より
金委員長のテープカットに加わった朴奉珠氏(左端)と金才竜氏(右端)=労働新聞より

 かつて筆者が北京で北朝鮮情勢を取材していたころ、「朴奉珠総理は人望が厚い」という話を何度も耳にした。

 金才竜氏は首相と党政治局員、国務委員を兼任する。慈江道党委員長や党中央委員などを歴任して、19年に朴奉珠氏の後任に就任した。北朝鮮では昨年末の党中央委総会で、金委員長が経済秩序を整備するために内閣の機能を強化するよう指示し、金才竜氏の役割もこれまで以上に重視されるようになった。(参考記事:新型コロナで正恩氏の「正面突破戦」が窮地に 中国からはしごを外された観光誘致)

 金徳訓氏は党政治局員、党中央委副委員長、副首相を務め、経済全般を指揮する立場にある。1961年生まれ。大安電気工場(現・大安重機械連合企業所)の支配人、慈江道人民委委員長などを経て、2014年4月に副首相に任命された。昨年12月の党中央委総会で党要職につき、最近、急速に存在感を高めている。

金委員長を出迎える朴泰成氏(左端)と金徳訓氏(左から2人目)=朝鮮中央テレビより
金委員長を出迎える朴泰成氏(左端)と金徳訓氏(左から2人目)=朝鮮中央テレビより

 朴泰成氏は最高人民会議議長(国会議長)、党政治局員、党中央委副委員長を務める。1955年生まれ。2017年7月に順川リン酸肥料工場が着工した際、所在地である平安南道党委員長を務めていたとされる。現在は主に科学分野を担当しているようだ。

 同行幹部の中で実妹・金与正氏を除いて、金委員長との距離が極めて近いのが、趙甬元氏だ。党政治局員候補、党中央委員という要職に加え、党を事実上取り仕切る組織指導部第1副部長という強力なポストに就いている。

金委員長を遠目に見守る趙甬元氏(中央)=朝鮮中央テレビより
金委員長を遠目に見守る趙甬元氏(中央)=朝鮮中央テレビより

 金正恩体制に入ってから急速に力をつけ、2018、2019両年の金委員長の現地指導への同行回数が最も多い。なぜ金委員長がこの趙甬元氏を重用するのかは、ウォッチャーの間でも解けていない疑問の一つ。北朝鮮の重要人物の子弟なのか、特別な能力を持つ人物なのか、今後も情報収集が必要だ。

ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長

大阪市出身。毎日新聞入社後、大阪社会部、政治部、中国総局長などを経て、外信部デスクを最後に2020年独立。大阪社会部時代には府警捜査4課担当として暴力団や総会屋を取材。計9年の北京勤務時には北朝鮮関連の独自報道を手掛ける一方、中国政治・社会のトピックを現場で取材した。「音楽」という切り口で北朝鮮の独裁体制に迫った著書「『音楽狂』の国 将軍様とそのミュージシャンたち」は小学館ノンフィクション大賞最終候補作。

西岡省二の最近の記事