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松田直樹はどんな監督になりたかったのか。

二宮寿朗スポーツライター
現役を引退したら指導者になる目標を抱いていた。どこまでもサッカーを愛していた(写真:築田純/アフロスポーツ)

 8月4日、午後1時6分――。

 もうあれから9年。松田直樹が天国に旅立った日、旅立った時間。黙とうを捧げ、思いにふける。

 私もきっとそのワンオブゼム。

 SNSにはいろんな人が彼に対する思いをつづっている。横浜F・マリノス時代の後輩である河合竜二(現在は北海道コンサドーレ札幌CRC)も呼び掛けていた。「松さん元気ですか?」と。それを見て心のなかで自分もクスッと独り言。「俺も同じことを伝えてました」。

 天国にいる彼も大変だ。多くの人から「元気ですか?」と聞かれて、なんだよってニカッと八重歯をのぞかせながら困っている光景を勝手に想像してしまう。

 いつも命日に合わせてどこかの媒体で何か記事を書いてきた。彼のことだったり、彼の仲間のことだったり、AEDのことだったり。だがコロナ禍もあって取材もなかなか難しい現状、書くテーマを決めないまま命日を迎えてしまった。

 2013年9月に出版した「松田直樹を忘れない」を久しぶりに読んでみた。本稿の最後に、目を留めた。かつてのインタビューを再掲載した「松田直樹の言葉」に。

 引退後の夢は?

 読まなくても彼が語ったことは覚えている。

「指導者になるしかないとは思うんだけど、想像はつかない。俺自身、いろんな指導者と会ってきて、正直、好きな人も苦手な人もいたよ。でもいろんな指導者のいいところだけ取っていくといいかな。やるとしたら、選手の気持ちを分かってやれる監督、指導者になりたい。選手は指導者によって変わってくると思うから」

 彼はどんな指導者になっていたのだろうか。

 生きていれば43歳。

 誰に聞いても「サッカー小僧」「サッカー馬鹿」と彼を表現する。このときは「なるしかないとは思うんだけど」と濁してはいたものの、早い段階から指導者になることは心に決めていたと思っている。

 2011年シーズン、当時JFLだった松本山雅に移籍する前に指導者C級ライセンスは取得済みで、シーズンオフにはB級を受講するつもりだった。

 彼の世代は、今や指導者の第一線で働いている。

 日本代表でずっとチームメイトだった宮本恒靖は古巣・ガンバ大阪を率いており、生年月日がまったく一緒でF・マリノスでともにプレーした吉田孝行はヴィッセル神戸の指揮官を務めた(現在はV・ファーレン長崎コーチ)。盟友である安永聡太郎もJ3のSC相模原を指揮(現在はサッカー解説者)、同じく盟友の佐藤由紀彦はFC東京のトップチームでコーチを務めている。

 負けず嫌いの彼のことだ。絶対どこかのクラブで彼らと張り合おうとしていたに違いない。

 選手の気持ちを分かってやれる監督――。

 直情タイプの彼は代表監督だろうが、納得できないことがあれば反発した。フィリップ・トルシエ監督からU-21代表に呼ばれたものの、出番のなかった試合後に不貞腐れた態度を取って「このチームから離れてくれ」と追放されたことがある。

 フラットスリーのライン操作についても怒鳴り散らされて、こっちの考えを聞こうともせずに自分のやり方を押しつけてくるやり方に納得がいかなかった。

 翌年にはU-22代表に復帰したものの、韓国遠征後のドイツ合宿を拒否してトルシエに直談判して日本に帰国している。途中離脱は一度どころか二度までも。

 

 普通なら呼ばれないだろう。実際トルシエからも「呼ばない」と通告されていた。

 しかしそれでもA代表に呼んでくれたことで、松田は意気に感じた。それ以降、反発することなくフラットスリーの一角を担うようになる。

 トルシエにはエキセントリックな印象もあるが、一方で選手のハートをつかむのもうまいところがあった。そう松田から聞いたことがある。

 2000年のアジアカップ、レバノン大会。決勝のサウジアラビア戦は松田の強気のディフェンスが光った。シャットアウトしての優勝劇。

「使ってもらった監督に、少しは恩返しができた」

 彼の心のなかには二度の離反が心に引っ掛かっていた。タイトルを獲ったことで恩返しの言葉を照れながらも口にすることができた。

 松田が嬉しそうにこぼしたことがある。

「アジアカップのベストイレブンに俺の名前が入ってなかったとかで、監督が『何で入ってないんだ!』って怒ってて。本気か冗談なのかは分からないけど、選手からしたらそんなこと言ってくれるだけで嬉しいんだよね」

 

「選手の気持ちを分かってやれる監督」とは、物分かりがいいということではない。

 彼は器用なタイプでも、バランサータイプでもない。

 選手とぶつかり合って。本気でぶつかり合って。でも頑張ろうとする選手の気持ちを否定することはせず。

 もし彼が頑張っていなければトルシエからは認められず、本当に二度と呼ばれていなかったはずだ。トルシエはその後の動向をちゃんと見ていてくれていた。代表復帰への思いを知ってくれていた。「選手の気持ちを分かってやれる」は、己の経験を踏まえてのこと。指導者になるうえで、最も大切にしたい要素として。

 選手は指導者によって変わってくると思うから――。

 この松田直樹の言葉を、サッカーを愛するすべての指導者に送りたい。

スポーツライター

1972年、愛媛県出身。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当し、2006年に退社。文藝春秋社「Sports Graphic Number」編集部を経て独立。著書には「岡田武史というリーダー」(ベスト新書)「闘争人~松田直樹物語」「松田直樹を忘れない」(ともに三栄書房)「サッカー日本代表勝つ準備」(共著、実業之日本社)「中村俊輔 サッカー覚書」(共著、文藝春秋)「鉄人の思考法」(集英社)がある。近著に「ベイスターズ再建録」(双葉社)。課金制スポーツメディア「SPOAL」(スポール)の立ち上げに参加。

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