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「プロジェクトM(マリノス君)」

二宮寿朗スポーツライター
マリノス君は応援を盛り上げるのもうまい。お立ち台がよく似合う(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

 コロナ禍によって、ある偉大な記録が危ぶまれていた。

 選手じゃない、監督でもない。

 横浜F・マリノスのマスコット、マリノス君である。水兵帽をかぶったカモメのマリノス君はJリーグの数あるマスコットのなかでもちょっと貫禄が違う。

 1993年のリーグ開幕から登場して、ホームゲームは1日も休んだことがない凄いヤツ。選手の記念撮影には必ず入っている凄いヤツ。来場するファン、サポーターを迎え入れ、最後のお客さんが帰るまでスタジアムで見届ける凄いヤツ、背番号0のユニフォームをまとい、自分のサインを持っている凄いヤツ……ゴールが決まると前方宙返りを決めてみせる。近年はでんぐり返しに変わったものの、それはそれで凄いこと。だってJリーグ開幕からもう27年も経っているのだから。

 Jリーグが再開するにあたり、運営プロトコルがクラブに伝えられたのは6月8日のこと。感染リスクを高めないために、マスコットが試合会場に入れないことが記載されていた。

 マリノス君はここまでJ1リーグ453試合連続出場を果たしている。J1は7月4日に再開。8日、ホームのニッパツ三ツ沢競技場で開催される湘南ベルマーレ戦でもしマリノス君が会場に入れないとなったら……。

左がマリノス君、右はマリノスケ y.f.m提供
左がマリノス君、右はマリノスケ y.f.m提供

 Jリーグにマスコットの連続出場記録などない。これはF・マリノスがクラブ独自の記録としてこだわってきたことだ。

 社内にNHKのドキュメント番組「プロジェクトX」ならぬ「プロジェクトM(マリノス君)」が立ち上がる。何とか記録を途絶えさせないアイデアはないものか。マーケティング担当のメンバーを中心に集まった社員、スタッフたちはミーティングを重ねていくようになる。サポーターからも「マリノス君はどうなるの?」と記録が途絶えることを心配する声が届いていた。

「ベンチの横にマリノス君の人形を置くっていうのはどう?」

「うーん、ちょっと強引すぎない?」

 検討に入ったものの、人形を置いての記録継続には無理があるとの意見が多数を占める。振り出しに戻る。そんな繰り返しだったという。本人不在なのに記録継続をさせようとすること自体に無理があるのだから致し方ない。

 Jリーグの再開にあたって案件はマリノス君のことばかりではない。「Jリーグ新型コロナウイルス感染症対応ガイドライン」に沿った準備としてPCR検査やリモートマッチ、5000人の観客動員に向けた対応など、不慣れなことを進めていかなければならない。妙案が浮かばなかったことで、苦渋の決断ながら一時は記録の継続をあきらめた。

 6月19日、事態が動いた。

 社内ではリモートマッチでスタジアムに応援に行けないファン、サポーターの新たな観戦スタイルとしてSNSを利用した「デュアルスタジアム」構想を詰めていた。簡単に言えば、実際にスタジアムで応援しているのと同じような雰囲気を提供し、ファン、サポーターがつながって応援できるというサービスだ。

「ん? ここにマリノス君に登場してもらえばいいんじゃないの?」

 誰かが言った。ときが止まった。誰かが声を挙げた。いける、と。

 なるほど説明はつく。スタジアムでプレーする選手と応援するファン、サポーターをつなげるのが「デュアルスタジアム」だと位置づければ、「つまりはスタジアムにいるのと一緒」が成り立つ。ホームゲームの湘南戦でそれを実行すれば、連続出場記録を途切れさせないことができる。

 Jリーグ公認でも何でもないのだが、Jリーグにこのアイデアがありかなしか問い合わせてみたところ「ありなんじゃないか」とお墨つきを得た。

 とはいえ、ただいるだけでは意味がない。ゴールが決まるとでんぐり返しをするつもりらしく、そのために横浜市内の某スタジオから参加するとか。試合前後にファン、サポーターと触れ合うリモートグリーティングが用意されるという。マリノス君が出迎え、マリノス君が見送るというスタンスはリモートであろうが崩さない。

y.f.m提供
y.f.m提供

 なぜ、そこまでマスコットにこだわるのか。

 ある社員は、当然といった表情で言った。

「マリノス君は一心同体の象徴なんです。彼を欠くことはできないし、彼がいることで一つになれる。記録のこともそうですけど、それ以上にマリノス君がホームゲームにいることが横浜F・マリノスにとっての日常だと思っていますから」

 マリノス君は、ファン、サポーターの気持ちを一つにする。

 選手紹介の際、彼は大旗をブンブンと振り回して盛り上げる。

 マリノス君は、チームの気持ちを一つにする。

 試合はベンチ横に用意される「特別席」に座って試合を見守る。ゴールが決まったらでんぐり返し、勝利したらみんなとハイタッチ。ヒーローインタビューでも隣にいる。結果が出なかったら選手の肩をポンポンと優しく叩く。

 昨シーズン限りで引退した栗原勇蔵クラブシップ・キャプテンが教えてくれたエピソードを思い出した。

 昨年MVPに輝いた仲川輝人がまだ本領を発揮できていなかったころ、マリノス君はこう声を掛けたそうだ。

「この世界は我慢。我慢なんだよ。でも必ずチャンスは来るから」

 木村和司をはじめクラブの歴代プレーヤーをずっと見てきた立場だから言えるのかもしれない。

 マリノス君って喋るんだ。

 ちょっとした疑問をぶつけると、栗原はフフフと不敵な笑みを浮かべた。

 まあ、俺は『トリ語』が分かるから。

 それ以上突っ込むなという視線をこちらに向けながら。

 サポーターを一つにし、チームを一つにし、サポーターとチームをつなげる存在。なるほど、一心同体の象徴という理由が理解できる。

 雨の日も風の日も、マリノス君は必ず日産スタジアムに、三ツ沢にいる。

 雨にも負けない、風にも負けない。何があってもホームゲームにいないことはなかった。そしてコロナにだって負けない。

 湘南戦に登場すれば、連続出場記録はまた一つ伸びて455試合になる。

 日常を取り戻す――マリノス君を希望の象徴として。

y.f.m提供
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スポーツライター

1972年、愛媛県出身。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当し、2006年に退社。文藝春秋社「Sports Graphic Number」編集部を経て独立。著書に「岡田武史というリーダー」(ベスト新書)「闘争人~松田直樹物語」「松田直樹を忘れない」(ともに三栄書房)「サッカー日本代表勝つ準備」(共著、実業之日本社)「中村俊輔サッカー覚書」(共著、文藝春秋)「鉄人の思考法」(集英社)「ベイスターズ再建録」(双葉社)がある。近著に「我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語」。スポーツメディア「SPOAL」(スポール)編集長。

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