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「自分に勝った」山中慎介は、ボクシングをやり切った。

二宮寿朗スポーツライター
現役引退を表明した山中慎介は「多くの方に支えられてきた」と感謝を述べた

 あのときと同じ涙ではなかった。

 試合後の控え室。山中慎介はうつむくことなく、顔を上げた。

「体重関係なく相手より弱かったというだけです。2ラウンドという早い結果で終わってしまいましたけど、現役を続行してこの試合まで1日1日、目的をもって練習して考えることができました。それだけで本当に現役を続行して良かったなと思っています」

 3月1日、東京・両国国技館で行なわれたWBC世界バンタム級タイトルマッチ。前日計量でリミットをフェザー級相当の2・3キロも超えたルイス・ネリとのリベンジマッチに臨んだ山中は計4度のダウンを喫して砕け散った。

 約束されたウエートまで絞り切ったボクサーと絞り切っていないボクサーでは体力、パンチ力、スピードに差が出てしまう。体を絞り切っていないネリが有利になることを承知で彼は最後の戦いに挑んだ。「(結果には)納得しています」と勇敢な敗者は一つのグチもこぼさなかった。現役引退を口にしたその表情は無念というよりも、どこか清々しくも映った。彼の真横で話を聞いていた筆者にはそう感じた。4回TKO負けに終わった昨年8月のように、ファンへの申し訳なさと悔しさで泣きじゃくったあの夜とは違っていた。

 ネリには前回ドーピング疑惑がかかり、今回は前代未聞の大幅超過。山中がどれほどこの試合に懸けてきたか、分からない者は周りにいない。「ふざけんな!」と言葉を発した前日計量のように、この負けをどう受け入れればよいのか戸惑いがあっても不思議ではなかった。

 どうして清々しく感じたのか、頭にこびりついて離れなかった。

 答えは試合の4日後に放送されたNHKのドキュメント番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」にあった。3月3日に収録したというインタビュー。山中は密着してきた番組の田中啓太郎ディレクターの問いにこう答えている。

「アイツには負けましたけど、自分に勝てた」――。

 この言葉を聞いたとき、試合の本質が分かった気がした。

 山中は自分に勝ち、ネリは自分に負けたのだ、と。

 この観点に立つと、いろんなものが胸にストンと落ちてくる。絡まり合った因数分解が解けていくような気がした。

 ネリは、何故減量に失敗して自分に負けたのか。

 単なるいい加減なボクサーで済ませていいのか。いや理由はそれだけじゃないと思えた。革の薄いメキシコ製グローブではなく、「日本製にしろ」と試合2日前のルールミーティングで要求してきたのはネリ陣営だった。前回の対戦で、ネリは山中の左を感じ取っている。クリーンヒットはなかったにせよ「射程距離」を嫌がって強引に前に出てきた。警戒の色を強めているとも受け取れた。

 ネリのモチベーションはどうだったか。地元ティファナに2階建ての家も買ったそうだ。ドーピング疑惑もあった。一方で、日本にいるヤマナカはリベンジに燃えている――。

 ネリは山中を舐めていたのではない。あくまで筆者の推測の域を出ないが、むしろ怖れていたのではないだろうか。だからこそ自分に負けて、あれだけの体重オーバーをやらかしてしまったのではないだろうか。だからこそ圧倒的に有利な状況だったにもかかわらず、勝ってあれほど大はしゃぎしたのではないだろうか。

 山中は体重オーバーのネリに恐怖しなかった。自分に勝ったのだから、恐怖する必要もなかった。

 山中慎介は日本歴代2位となる12度の世界王座防衛を果たし、「神の左」と称される左ストレートで対戦相手をバッタバッタと倒してきた。彼をずっと追ってきて、ふと気づかされたことがある。どの世界戦においても「万全に仕上がりました」以外、実は聞いたことがないのだ。

 ある試合が終わってしばらく経ったあと、意地悪な質問をしたことがある。

 実際、万全じゃない試合もあったんじゃないか、と。

 山中はイエスともノーとも言わずに、こう返した。

「もし調子が良くないと感じても、そう言ったら本当にそうなってしまうような気がするんですよ。だから万全に仕上げていくしかないし、万全に仕上げました」

 この人らしいと思った。今回、試合が終わって妻・沙也乃さんに減量のことを尋ねた。「これまでよりはスムーズに落ちにくくなってはいました」と明かしてくれた。しかし彼はきっちりと体重を落とし、いつもどおり万全のコンディションをつくってきた。過程ではなく、到達点がその答えだと言うように。

 昨年8月、ネリに敗れて長年君臨してきた世界王座から陥落した。プロに入っての初めての黒星を引きずる彼がいた。アウトドアが大好きなのに、家に閉じこもった。子供たちと公園に行けなかった。現役続行を決め、妻に告げるとこう言葉が返ってきた。

「初めて負けて、慎ちゃんはみじめな思いを持ったと思う。また負けたら、同じように、いやそれ以上にみじめな思いをするかもしれないよ。それでもいいの?」

 山中は黙って頷いた。沙也乃さんはこの話を思い出すだけで涙ぐむ。一人で苦しみ、一人で戦っていたことを誰よりも知っている立場。何も言わず、そっと見守ってきた。

 彼は、負けを引きずる自分に、すべてに打ち勝って「最強の自分」をつくり上げた。家族の支えもあって自分に勝った――。その言葉は重く、尊い。

 3月26日、大安。都内のホテルで晴れ晴れとした山中慎介がいた。

 金屏風の前での引退表明会見。

 現役最後に聞いておきたかった。自分に勝つために、大切にしたことは何かを。

 彼は言った。

「最後の試合に限らずなんですけど、試合に行くまでにすべてをやり切った、何もやることがないくらいまで(の状態に)持っていくことができました。後悔なく調整できたっていうのは本当に、自信に思います。最後の試合は特にそうですけど、一日一日、練習の時間を大切にしてやってきたんで本当に、試合の前までにやれることはやった、というふうに思えるまで努力し続けてこれたのが一番かなとは思います」

 プロデビューから12年。迷いなき左ストレートと同じように、まっすぐに、誠実にボクシングロードを歩んできた。

「悔いはありません。(世界チャンピオンという)目標よりもはるか上に行けたことに満足しています」

 山中慎介は、ボクシングをやり切った。

 涙はいらない。

 ホテルの外は桜満開、春うらら。新たな門出を祝うように、優しく温かい風がフッと吹き抜けていった。

スポーツライター

1972年、愛媛県出身。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当し、2006年に退社。文藝春秋社「Sports Graphic Number」編集部を経て独立。著書に「岡田武史というリーダー」(ベスト新書)「闘争人~松田直樹物語」「松田直樹を忘れない」(ともに三栄書房)「サッカー日本代表勝つ準備」(共著、実業之日本社)「中村俊輔サッカー覚書」(共著、文藝春秋)「鉄人の思考法」(集英社)「ベイスターズ再建録」(双葉社)がある。近著に「我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語」。スポーツメディア「SPOAL」(スポール)編集長。

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