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劇団四季のミュージカル『ノートルダムの鐘』が、さらなる進化を遂げていた!

中本千晶演劇ジャーナリスト
※記事内写真 提供:劇団四季

 5月21日、KAAT神奈川芸術劇場にて開幕した劇団四季『ノートルダムの鐘』を観た。

 重厚な物語をしっかり支える魅惑の楽曲、そして、心動かされる芝居。久しぶりにシンプルに「ミュージカル」を堪能できた気がしている。

 この作品は、『レ・ミゼラブル』などで知られるフランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』に着想を得て、アメリカのディズニー・シアトリカル・プロダクションズが制作し、2014年に初演されたものだ。これを劇団四季が2016年12月に東京・四季劇場[秋]にて初演。以来、神奈川、京都、福岡で続演されてきた。

 ディズニーの『ノートルダムの鐘』といえば、1996年に封切られたアニメ映画が有名だが、ミュージカル版はアニメとは別物だ。結末もハッピーエンドとなっているアニメと異なり、ユゴーの原作小説に近い。ただし音楽はアニメと同じく、アラン・メンケン(作曲)&スティーヴン・シュワルツ(作詞)のコンビが手がけ、アニメと共通の楽曲も使用されている。

 また、同じユゴーの小説を題材としたミュージカルとしては、1998年にフランス・パリで初演された『ノートルダム・ド・パリ』があるが、これも今回の『ノートルダムの鐘』とは別物である。こちらは『ロミオとジュリエット』や『1789』などで日本でもおなじみとなったフレンチ・ミュージカルの先駆けともいえる作品で、2013年には来日公演も実施されている。

 物語の舞台は15世紀末のパリ。醜い容貌と背中に大きなコブを持つカジモドは、聖職者フロローに育てられ、ノートルダム大聖堂の鐘突き男としてひっそりと暮らしていた。年に一度の道化の祭りで初めて聖堂の外に出たカジモドは、その化け物のような容貌を人目にさらしたことで酷い目に遭うが、美しいジプシー娘エスメラルダに救われ、彼女を密かに愛するようになる。

 いっぽうフロローもまた、神に仕える身でありながらエスメラルダに邪な恋心を抱く。さらに、戦争から帰還して大聖堂の警備隊長に就任したフィーバスもエスメラルダに心惹かれる。この恋の四角関係が、4人の運命を大きく狂わせていくことになる。

 じつは私、劇団四季初演版を2017年6月に観たのだが、ミュージカルファンの間で大きな話題を呼んでいたにもかかわらず、私自身は物足りなく感じてしまった。周囲の大評判と自分が受けた印象とのギャップによほど悩まされたのか、当時感じたことを個人的な観劇記録に詳細に書き残していた。

 だが、今回は違った。2017年には「1幕も2幕もとても長く感じてしまった」のが、今回は2時間があっという間に過ぎ去っていった。

 これはいったい何故なのか? 自分が変わったのか、それとも演じる側が変わったのか? 以下、初演時に書き残した記録も参照しながら、今回は「何が良かったのか」を浮き彫りにしつつ、改めてこの作品の魅力に迫ってみたい思う。

(以下、作品の結末の詳細に触れています。また、あくまで今回の進化に焦点を当てるものであることをご了承ください)

撮影:阿部章仁
撮影:阿部章仁

◆より深く咀嚼されて、厚みが増したキャラクターたち

 2017年の四季初演版を観たとき、私は「全体的に説明過剰で教訓めいているのがとても気になった」「キャラクター設定も全般的にマイルド、悪く言えば皆いい人すぎて物足りない」と感じたらしい。とくに、フロローについてのコメントは今読み返すと苦笑いしてしまうほどだ。

「フロローのような色悪的存在の歪んだ心の動きを言語化されると冷めてしまう。一番仰天だったのはラストの決め台詞『それは私が人間だということだ』である。そこを言語化してどうする? フロローのことを『人として最低』と感じるか、『それが人間というもの』と感じるかは観客の心に任せて欲しいのに、先に本人から自己申告されたら冷める!」

 だが、今回のフロロー(野中万寿夫 ※注)のこのセリフから感じ取れたのはまったく違うものだった。

 フロローにとってのエスメラルダは、決して神にはなれない不完全な自分、つまり自分が「人間」であることを突き付けてくる存在だ。最後のこの一言は、そんなフロローが搾り出す心の叫びのように聞こえたのだ。

 それでも彼女に心惹かれずにはいられない自分の罪深さに懊悩するフロロー。彼にとってエスメラルダの処刑は、自らをも断罪し、再び心の平穏を取り戻すための手段でもあったのかも知れないと思えた。

 フィーバス(佐久間仁)についても初演時には「いい人過ぎるし、エスメラルダとの純愛が中途半端に描かれるのもつまらない」と書いている。ちなみに原作やフランス版ミュージカルのフィーバスは見かけ倒しの不実な男なので、余計にそう感じたのかもしれない。

 だが、今回はただの「いい人」にとどまらない、彼が内に秘めた虚無をそこはかとなく感じさせるフィーバスだった。そんな彼の前に現れたエスメラルダはあふれる命のエネルギーそのものであり、戦争でたくさんの人の命を奪ってきた彼が抱える虚しさを埋めてくる存在だったのだろう。

 そしてカジモド(金本泰潤)にとってのエスメラルダは、醜い自分に無条件に愛を注いでくれる存在だ。それはエロスに対するアガペーともいうべき愛である。だが、幸か不幸か、この愛がカジモドの中に眠る「人間らしい感情」を目覚めさせてしまう。それまで動物のようにおとなしく飼い慣らされてきたカジモドが、フィーバスへの嫉妬、そしてフロローへの怒りを爆発させていく。

 三者三様に男たちの運命を狂わせるエスメラルダ(松山育恵)が、これまた魅力的だった。彼女に対しても初演では辛口で、「彼女のファムファタル的な側面があまり描かれていない。確かに頭も良くて魅力的な女性だが、性格の良さや知性だけでは男は狂わないのではないだろうか」と書き残している。

 だが、今回は登場シーンのダンスから、いきなり心奪われてしまった。フロローでさえ惑わしてしまう妖艶さと、カジモドと心を通わせられる純粋さの両面、そして社会の最底辺にありながらも、誰よりも誇り高く生きている女性として、この物語の中心に存在していた。

 要するに、2017年に四季初演版を観たときは、この作品が本来伝えんとするメッセージと舞台上の芝居が、乖離している感が否めなかったのだ。それが今回は、どのキャラクターもより深く咀嚼されて厚みが増し、聖も俗も併せ持つ血の通った人間として、舞台上を確かに生きていた。

撮影:阿部章仁
撮影:阿部章仁

◆舞台装置、演出の工夫が伝えるものは?

 演出や舞台装置にも見どころの多い舞台である。その様々な工夫の意味するところについても、今回改めて考えさせられた。

 物語は主に、カジモドが暮らすノートルダム大聖堂内で進み、聖歌隊(クワイア)の大合唱が荘厳な空間を表現する。また、そこには石像役のアンサンブルも居並ぶ。石像たちと対話できるのはカジモドだけで、カジモドは彼らの声に背中を押されて勇気を奮い起こし、行動する。それはまるで、カジモド自身の内なる声との対話のようでもある。

 だが、常にカジモドを励ます彼らは、街中の場面に転換したとたんに石像の着衣を脱いで、残酷で移り気な民衆に豹変する。理想を語る石像と現実を生きる民衆、こちらは神の世と人間の世の対比のようだ。

 カジモド役の俳優は素顔のままで登場し、舞台上で顔を汚し、背中にコブを背負ってあっという間にカジモドになる。爽やかな好青年が、一瞬にして醜いカジモドへと変貌する演出も意味深だ。逆にラストシーンでは全員が顔を汚す中、カジモドだけ顔の汚れが拭われる。これは、忌み嫌われてきたカジモドもまた普通の人間であり、逆に人は誰しもカジモドなのだということを表しているかのようだ。

 最後にカジモドが元の俳優に戻るとき、はずしたコブを受け取るのはジプシーの首領・クロパン(吉賀陶馬ワイス)だ。いつでもどこでもしたたかに生きるクロパンが、実はこの物語そのものも陰で動かしていたのかも知れない。そう感じさせるのも心憎い仕掛けである。

 最後に「何かが心に残れば幸いです」と語りかけられたとき、果たして私の心に残ったものは何だろうと、胸に手を当てて考えてみたくなった。

 カジモドの純粋な心を慈しみたい、エスメラルダのように誇り高くありたいと思いつつ、実際にはフロローのような心の弱さを認めざるを得ない自分がいる。民衆が愚かで残酷な存在であることは、今も昔も変わらない。そんな諦めと、それでもすがりたくなる、かすかな希望。さまざま思いがよぎる。

 そして、進化した『ノートルダムの鐘』にこれほどまでに心揺さぶられている自分自身に驚いている。これもまた「生もの」である舞台の醍醐味なのだろう。

※注)劇団四季は複数キャスト制をとっており、公演日ごとに異なる。

本稿で記載したのは、5月21日観劇時のキャストである。

演劇ジャーナリスト

日本の舞台芸術を広い視野でとらえていきたい。ここでは元気と勇気をくれる舞台から、刺激的なスパイスのような作品まで、さまざまな舞台の魅力をお伝えしていきます。専門である宝塚歌劇については重点的に取り上げます。 ※公演評は観劇後の方にも楽しんで読んでもらえるよう書いているので、ネタバレを含む場合があります。

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