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「失敗はウェルカム!」 覚悟を決めてNZに旅立つ姫野和樹、直撃インタビュー!

永田洋光スポーツライター/週刊メルマガ『ラグビー!ラグビー!』編集長
穏やかな表情にもかかわらず確固たる決意を語った(オンライン取材時に撮影)

 旅立ちだ。

 日本国内では、新型コロナウィルス感染拡大の影響で、1月16日に予定されていたトップリーグ開幕が2月20日へと延期され、トップレベルのプレーヤーたちはもう1年近く公式戦のピッチに立っていない。そんな実戦不足を承知の上で、姫野和樹はトヨタ自動車ヴェルブリッツを離れて海を渡り、ニュージーランドでハイランダーズの門を叩く。

 目標は、座右の銘である「常に一流であれ」を実践すること。延長線上には、2023年にフランスで開催されるラグビーW杯で日本代表に入り、史上初めてベスト8に到達した前回以上の結果を残すことがある。

 すべては、「ラグビーを日本になくてはならないものにする」という「夢」を実現するためだ。

「『常に一流であれ』という言葉を教えてくれたのは中学校(名古屋市立御田中学校)の先生です。しかし、当時は『何かを極めた人が一流と呼ばれるのだろうな』みたいに受け取っていました。でも、そんな考えが浅いことに、高校(春日丘高校)、大学(帝京大学)と進むうちに気がつきました。大学で岩出雅之先生から『失敗してもすぐに起き上がって考え、行動する人間が一流だ』と教えられたとき、今まで中学や高校で教えてくださった先生たちの話が初めて理解できたのです。

 一流というのは、結果を残したという話ではなくて、メンタリティの話なんや――そう気づいたとき『なるほど!』とすごく納得して、以来、自分のなかの大切な言葉になりました」

「本当にパンクしそうなときもあった」ルーキーでのキャプテン就任

 2017年5月。トヨタに入社して1か月で、当時の監督ジェイク・ホワイトからいきなりキャプテン就任を伝えられた。

「トヨタは変わる。その新しい象徴を作る」

 それが、07年のW杯フランス大会で母国南アフリカを二度目の優勝に導いた、名将が告げた抜擢の理由だった。

 同時に、こんなメッセージも伝えられた。

 姫野を日本代表へと育て上げる――。

 しかし、伝統あるチームのキャプテンは、簡単な仕事ではなかった。

「1年目はメチャクチャ大変でした。

 企業に就職したばかりの人間がいきなり部長をやれと言われて何もできないのと同じで、みんなが許してくれないし、認めてくれない。誰も僕の話を聞いてくれなかったし、『1年目の若造がキャプテン?』みたいな目で見られていました。みんなの前でキャプテンとして話すのも、なかなかシンドイものがありました」

入社1年目の試練を乗り越えた姫野はプレーヤーとしても大きくたくましく成長した
入社1年目の試練を乗り越えた姫野はプレーヤーとしても大きくたくましく成長した写真:つのだよしお/アフロ

 社会人として船出したばかりで与えられた試練は、並みの厳しさではなかったのだ。

「うん、本当にパンクしそうなときもありました。初めてラグビーを辞めたい――辞めて逃げたい、と思ったこともありました。毎日、自分に、そんなダサい人間になるのか、と言い聞かせるような状態でした。孤独感がすごかったですね、1年目でキャプテンをやる、というのは。もちろん、助けてくれた選手もたくさんいたのですが、すごく孤独を感じました。

 でも、失敗だらけの毎日のなかで、自分を奮い立たせてくれたのが、一流であることの大切さでした。中学校から大学までの先生たちの教えが、僕の心の支えになってくれたのです。失敗してもとにかく起き上がろう。失敗して失敗して毎日が失敗の連続だけど、すぐに起き上がる――そういう気持ちですね。失敗して寝たままのような状態にならないことをすごく意識しました」

 具体的には、とにかく行動を起こした。

「本当に努力をして、フィットネス・トレーニングでは誰よりも速く走る。一番最初にタックルに行く。誰よりも身体を張る。ボールが落ちたら誰よりも早く飛び込む――そういうことばかり黙々とやりました。グラウンド外でも、ロッカールームの掃除を毎週やったり、整理整頓をしたり、分析したり――目に見えるところで信頼を勝ち取っていくことが必要だと考えたのです。そうしたら、どんどん自分自身が成長していった。失敗を恐れなくなりました。ミスしてもすぐに起き上がればいいんだ――と思っているうちに、『常に一流であれ!』という言葉が、いつの間にか自分の芯というか信条になっていった。それが自分を成長させてくれた要因だと思います」

 名将に谷底に突き落とされた“若獅子”は、孤独に耐えて見事に這い上がった。

 そして、8月18日に開幕を迎えたトップリーグで活躍。チームはトップ4入りを果たし、姫野自身も、シーズン終了後には新人賞に選ばれた。代表デビューを果たしたのもこの年だった。

「シーズンが開幕して、そういう努力から始まったものが徐々に結果としてついてくるようになると、みんなが僕を見る目も変わってきた。シーズンが終わる頃には、みんなが僕の目を見て話を聞いてくれるようになったのです」

 姫野自身にとって決して忘れることのできないキャプテン1年目の試行錯誤が、原点となった。ハイランダーズへの挑戦も、その延長線上に生じたアクションなのである。

「失敗してもすぐに起き上がれる今」NZでの失敗は「ウェルカム」

「昨季はW杯でラグビーが注目され、会場に多くの人が来てくれたのがとても嬉しかった。遠方から練習を見に来られたり、僕を見に来たと声をかけてくださる方もたくさんいて、本当に嬉しかった。ただ、そういう状況が自分にとって最高なのかと考えたときに、今は違うのではないか、という思いがありました。もう一度ハングリーに、入社1年目のような厳しい環境に身を置いて、次のW杯に向けてチャレンジする。そう考えると、23年には僕も29歳になるので、ここでニュージーランドに行きたい、挑戦したいという思いが強くなりました。

ラグビーW杯2019準々決勝で南アフリカに敗れた直後の姫野。23年フランス大会では「それ以上」を目指す
ラグビーW杯2019準々決勝で南アフリカに敗れた直後の姫野。23年フランス大会では「それ以上」を目指す写真:アフロ

 僕の夢は、ラグビーを日本になくてはならないものにすることです。

 海外に行くチャンスがあるのに行かないのでは、自分だけではなく、日本のラグビー界にとっても良くないことだと思う。また、海外で日本人として活躍することで、今後のラグビーを担って行く子どもたちに、日本人でもハイランダーズで活躍できる、ニュージーランドで活躍できると、夢や感動や希望を感じてもらえるのではないか。僕にとってもプラスになるし、日本ラグビー界にとってもプラスになる――そう考えたのです。

 もちろん、言葉もわからないし、ニュージーランドの文化もわからない。いい選手がたくさんいるなかで試合に出られるかどうかもわからないし、食事もかなり大変でしょう。しかも、友だちもいないなかで、英語で人間関係を構築しなければならない。楽しみな部分が多い反面、正直に言えば、不安があるのも確かです。

 でも、新しい環境に身を置くのだから、それは当然でしょう。

 居心地のいい日本を離れて、そういう環境のなかに自分を置きたいからニュージーランドに行くわけで、だから、不安ですら自分を成長させてくれるのではないかと、楽しみにしています。それに、言葉が通じないというのは、トヨタでキャプテンになった1年目と同じで、では何をするか、ということです。つまり、一番最初にタックルに行く。身体を張る。泥くさくやる。僕がやることは、それだけしかない。

 プレーの面では、自分の強みであるボールキャリーやジャッカルといった部分に磨きをかけたい。オフロードなどのパス・スキルや、サポートのコースであったり、まだ自分が身につけていない部分をこれからの強みにしたい、という思いもすごくあります。そのための武者修行なので、ニュージーランドの選手やリーグのなかでしっかり学びながら、自分のモノにしたいですね」

 姫野は、トヨタに入って以来、どんなに厳しい試練に見舞われても決して下を向かず、失敗を恐れずに前を向き続けて確かな手応えをつかんできた。だから今、笑いながら失敗を心待ちにするような言葉も気軽に口にできる。

 こう言うのだ。

「失敗してもすぐに考えて起き上がることが自然にできるようになったので、僕はもう自分のなかでは、『一流』だと思っています(笑)。だから、ニュージーランドでのチャレンジも含めて、失敗はウェルカムなのです」

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

スポーツライター/週刊メルマガ『ラグビー!ラグビー!』編集長

1957年生まれ。2017年に“しょぼいキック”を連発するサンウルブズと日本代表に愕然として、一気に『新・ラグビーの逆襲 日本ラグビーが「世界」をとる日』(言視舎)を書き上げた。出版社勤務を経てフリーランスとなった88年度に神戸製鋼が初優勝し、そのまま現在までラグビーについて書き続けている。93年から恩師に頼まれて江戸川大学ラグビー部コーチを引き受け、廃部となるまで指導した。他に『スタンドオフ黄金伝説』(双葉社)、『宿澤広朗 勝つことのみが善である』(文春文庫)、共著に『そして、世界が震えた。 ラグビーワールドカップ2015「NUMBER傑作選」』(文藝春秋)などがある。

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