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ノーベル平和賞に決まったエチオピア首相――これを喜ばないエチオピア人とは

六辻彰二国際政治学者
アフリカ連合での会議に出席したエチオピアのアビー首相(2019.1.17)(写真:ロイター/アフロ)
  • ノーベル平和賞に決まったエチオピアのアビー首相は、対立する民族間の融和に尽力してきた
  • その業績は高く評価されるべきだが、一方で自由と民主主義に基づく融和は、皮肉にも新たな民族対立の呼び水となってきた
  • このノーベル平和賞はゴールではなく、次のステップにされるべきものである

 ノーベル平和賞の受賞者がエチオピアのアビー・アハメド首相に決まったことは、明るい話題の少ないアフリカで一つの光明ではある。しかし、エチオピア国民のなかにはこれを喜ばない者もいる。

アビー首相の功績とは

 ノーベル賞選考委員会は10月11日、今年のノーベル平和賞をエチオピアのアビー首相に授与すると発表した(エチオピアでは東アジアと同じく、名、姓の順でなく、姓、名の順で表記するため、報道でたまにある「アハメド首相」という表記は「晋三首相」というのと同じで誤り)。

 日本ではほぼ無名に近いが、アビー首相は就任して以来、周辺地域の緊張緩和に実績をあげてきた。

  • 隣国エリトリアとの領土問題について和平合意を成立
  • 争いのタネだったナイル河の水利用について(下流の)エジプト政府と協議を成立
  • 隣国スーダンでの軍事政権と反政府デモ隊の衝突での調停

 それだけでなく、アビー首相は国内の混乱の収束にも取り組んできた

 エチオピアでは最大の人口を抱えるオロモ人の間に分離独立を求める動きがあり、2015年頃から連邦政府とデモ隊が衝突を繰り返すなか、数百人が死亡したといわれる。2018年2月、連邦政府はオロミア州に非常事態を宣言し、数多くのオロモ人を「テロリスト」として逮捕・投獄した他、多くが殺害されたとみられる。

 こうした混乱のなか、2018年4月、オロモ人として初めて首相に就任したアビー氏は「それまでの政府の行き過ぎ」を謝罪したうえで、収監されていた政治犯を今年2月までに1万人以上釈放。さらに、非常事態の解除、インターネット遮断の解除、オロモ人政治組織の合法化など、民族間の融和に努めてきた。

 エチオピアではいまだにジャーナリストが「テロリスト」として拘留されるなど人権状況に問題があるとはいえ、こうしたアビー首相の取り組みは高く評価されるべきだろう。

 また、個人的な感想を言わせていただくなら、ノーベル賞選考委員会の発表に対するアビー氏の「恐縮している」という控えめなコメントは、各地に緊張を振りまきながら露骨に「ノーベル平和賞が欲しい」アピールをするトランプ氏より、はるかに好感がもてる。

 ただし、全てのエチオピア人がアビー首相を評価しているわけではなく、むしろ敵意を抱く者すらいる。アビー首相の改革は自由や民主主義の原則には適うものの、これが皮肉なことに民族間の対立を激化させやすくなってきたからだ。

多民族国家エチオピアの苦悩

 エチオピアではこれまで民族対立が絶えなかった。

 エチオピアの1995年憲法には、各州に「分離独立の権利」を認めるという、世界に例のない条項がある。80ほどの民族がいるこの国で分離独立の権利を認めれば、もっと以前にバラバラになっていても不思議ではなかった。

 なぜこうした条項があるのか。それは、逆説的だが、「お互いに別れる権利」を認めることで、民族間の対等のつきあいを目指すという考え方による(「離婚の権利」と同じ発想」)。

 エチオピアではもともと人口第2位のアムハラ人による支配の時代が長かった。しかし、1970年代に発生した内戦では、各民族がそれぞれアムハラ人主導の政府を攻撃した。

 各民族からなる4つの武装組織は1991年、連合体組織であるエチオピア人民革命防衛戦線(EPRDF)を結成し、これが1993年に全土を掌握。その後、選挙が実施され、4政党の連合体に衣替えしたEPRDFは最大与党の座を一貫して握り続けてきた。

 先述の分離独立の権利はこのEPRDF体制のもとで導入されたもので、それまでの経緯を反映して、各民族が対等につきあいながら一つのエチオピアを作るという考えが凝縮している。

 ただし、実際には政権内部でその後、人口第3位のティグライ人が主導権を握るようになった。これはEPRDFの発足を呼びかけて内戦終結に道筋をつけたメレス元首相(2012年に死去)がティグライ人だったことによるところが大きい。

 逆に、最大民族オロモ人の間からは、憲法で保障される分離独立の権利に基づき、本当にオロミア州をエチオピアから分離させるべきとの意見も噴出。ティグライ人主導の連邦政府とオロモ急進派の間の対立は徐々にエスカレートし、先述の2018年2月の非常事態宣言に至ったのである。

 つまり、タテマエで分離独立の権利を認め、対等な民族関係を謳いながら、EPRDFの事実上の一党制のもと、実質的には民族対立が力ずくで押さえ込まれてきたのだ。

初のオロモ人首相として

 こうした背景のもと、とりわけ弾圧されてきたオロモ人の不満を和らげるため、初のオロモ出身の首相に就任したアビー氏は、先述のように周辺国との緊張緩和だけでなく民族間の融和も推し進め、これが国際的に高い評価を得た。

 しかし、それまでの抑圧にブレーキをかけたことは、結果的にオロモ人急進派を活発化させるものでもあった。例えば、非常事態が解除されてから3カ月後の昨年9月には、首都アディスアベバでオロモの若者が政府支持者と衝突し、多くのけが人が出た。

 彼らがどの程度、実際に分離独立を目指しているかは不明だが、貧困や失業などに不満を抱くオロモの若者が急進派に吸収されることで、こうした衝突はむしろ増えている。

 一方、オロモ人が声をあげやすくなった状況は、既得権を握る他の民族の警戒感も呼んでいる

 今年6月には北部アムハラ州で軍の一部が蜂起し、連邦政府はこれを「クーデタ」と認定して約250人を逮捕。クーデタの首謀者で、連邦政府に銃殺されたアサミネイ・ツィゲ将軍はアムハラ民族主義者として知られ、連邦政府でオロモ人が影響力を増す状況への反感が、このクーデタを呼んだとみられる。

 この騒乱と並行して、首都ではクーデタ鎮圧の責任者だったセアル・メコネン参謀長ら複数の軍高官が銃撃テロで殺害された。セアル参謀長はティグライ人で、この暗殺はティグライ主導のこれまでの体制への不満が、オロモ人以外からも噴き出し始めたことを象徴する。

改革と秩序の二律背反

 各民族の間で分離独立の気運が高まる状況に、オーストリア、グラーツ大学のフロリアン・ビーバー教授らは「エチオピアが第二のユーゴスラビア(1990年代に民族間の対立によって崩壊した東欧の多民族国家)になる危険」に警鐘を鳴らしている。

 だとすると、11日のノーベル委員会の発表を受け、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルがアビー首相の「顕著な業績」を称賛しながらも「平和賞の授与がエチオピアのさらなる人権保護のきっかけにならなければならない」との声明を出したことは、無理のないことだ。

 一体性を目指し、押さえ込まれてきた人々を解放することが、次の対立の引き金になる。この問題は今や世界共通のものでもあるが、とりわけ厳しい状況にあるアビー首相とエチオピアの挑戦は、これからが本番なのである。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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