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「高等教育無償化」でイノベーションは生まれるか―データの国際比較にみる高等教育の優先度

六辻彰二国際政治学者
(写真:アフロ)

 国会では裁量労働制など、政府が打ち出した「働き方改革」をめぐる議論が続いています。この議論の一つのたたき台になったのが、2017年12月に官邸主導で閣議決定された、「人づくり革命」「生産性革命」を骨格とする「新しい経済政策パッケージ」です。このうち「人づくり革命」は、この政府文書において「一億総活躍社会をつくっていく上での本丸」と位置づけられ、その柱として「幼児教育の無償化」、「待機児童の解消」などとともに「高等教育の無償化」が掲げられています。

 政府によると、高等教育は「…国民の知の基盤であり、イノベーションを創出し、国の競争力を高める原動力でもある。大学改革、アクセスの機会均等、教育研究の質の向上を一体的に推進し、高等教育の充実を進める必要がある」。政府文書では、これに続いて「無償化」の必要性について述べられています。

 経済的に苦しい世帯にも高等教育の道を開くことそのものの意義は認められるべきでしょう。子どもの貧困は本人の責任ではありません。才能があっても所得を理由に進学を諦める人に、その才能を開花させることができれば、本来なら得られなかった便益を得られる可能性が広がるという意味で、社会全体にとっても有益なことです。

 ただし、その効果は社会の幅広い改善に期待がもてるものの、政府文書が暗示するほど「無償化」が先端的なイノベーションや競争力の向上に直結するかは疑問です。のみならず、政府が強調する「高等教育の充実」にとって、「無償化」の優先順位が高いかも疑問です。この点について、以下では各国とのデータ比較から考えます。

日本は教育熱心か

 まず、日本が教育をどの程度重視しているかをみていきます。

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 図1は文部科学予算の推移を示したものです。ここからは教育予算が2010年代に徐々に減少してきたことが見て取れます。この間、特別会計だけでなく一般会計も増加してきたことを考えると、少なくとも日本政府が教育に高い優先順位をつけてきたとはいえません。

 これは他の主要国との対比で、より明らかとなります。文部科学省自身が認めているように、日本の教育予算はその予算や経済の規模に照らせば、各国と比較して必ずしも多くありません。

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 図2は、一般歳出に占める教育予算の割合とGDPに占める教育予算の割合を、一般歳出に占める教育予算の割合が高い順に、各国ごとに表したものです。これは政府予算の規模や経済規模に照らして、教育がどの程度重視されているかを意味します。

 このうち、例えばシンガポールは政府歳出の約20パーセントを教育に充てています。シンガポールは都市国家で、狭い国土で資源がなくても利益率の高い産業を育成することで開発途上国から「卒業」し、現在では先進国並みの所得水準に到達しています。この躍進を支えた一つの柱が教育だったといえるでしょう。

 シンガポールに代表されるように、政府歳出に占める教育予算の割合で並べると、もともと政府歳出の規模が小さい小国が上位にきやすくなります。その意味では、世界第三位の経済規模をもつ日本の順位が低くなることは、不思議でありません。

 とはいえ、日本より予算規模やGDPが大きく、日本以上に「小さな政府」である米国の数値は日本をはるかに上回ります。超大国としての米国の力は、経済力や軍事力だけでなく、教育にも支えられてきたといえるでしょう。

高等教育における他国とのギャップ

 ところで、教育の優先度が総じて低い一方、日本の教育予算の配分には大きな特徴がみられます。図3は、各国の教育予算に占める初等(日本でいう義務教育)、中等(高校レベル)、高等(高校卒業後)のそれぞれへの配分を、高等教育向け予算の割合の高い順に示しています。

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 このうち日本のものをみると、中等教育向けが約38パーセントで最も高く、これは他の多くの国とさほど変わりません。

 その一方で、初等教育向けは約33パーセントで、これはサンプルがとれた国のなかでイスラエル(約38パーセント)、アイルランド(約36パーセント)に次ぎます。さらに、高等教育向けは約21パーセントで下から数えた方が早い水準です。つまり、他の主要国と比べて、日本は「初等教育に厚く、高等教育に薄く」という傾向が鮮明なのです。

 「少数のエリート教育より、すそ野の広い教育」という傾向は、国全体の発展にとって必ずしも悪いこととはいえません。開国以来の日本の近代化は、それ以前に寺子屋で識字能力が普及していたことで加速しました。さらに、経済学者のジョージ・サカロポロスは1985年の著作で初等教育と中等・高等教育の社会的収益率を計測し、初等教育を充実させた方が社会的収益率が高いと指摘。これを踏まえて、これ以降の開発経済学では初等教育が重視されることになりました。

 ただし、情報通信をはじめ知識集約型の産業が発達し、フランシス・ベーコンの格言「知は力なり」がこれまで以上に現実味を帯びる世界にあって、高等教育の重要性はかつてなく高まっているといえます。そのため、図4で示すように、日本政府も高等教育向けの予算の割合を徐々に高めていますが、それでも他の主要国とは開きがあります。

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個人プレーだのみの教育・研究

 高等教育への関心が低いままに、日本政府がイノベーションの原動力として高等教育の重要性を強調することには、違和感を覚えざるを得ません。

 図3で示した国のうち、国名の前に入っている数字は、ダボス会議(世界経済フォーラム)で示された「世界で最もイノベーションが起こっている10ヵ国」(2017-2018年度)の順位です。ここからは、ランキング上位の国のほとんどが高等教育向けの予算配分の高い国に集中していることが見て取れます。

 そのなかにあって、8位の日本は3位のイスラエルとともに、例外的に高等教育向けの予算配分が低いなかでランキング入りしている国です。好意的に解釈するなら、これは「限られた予算・資源のなかで成果を出す」という日本の力を示すものといえるかもしれません。

 しかし、京都大学の山中伸弥教授によるES細胞の開発に代表されるように、日本のイノベーションは一部の天才の個人的な努力の賜物であることがほとんどで、それを組織的に生み出す体制は必ずしも十分ではありません。「圧倒的な物資不足は精神力で乗り切れ」と言わんばかりの政府の姿勢が、戦前から変わっていないようにみえるのは私だけでしょうか。

 いずれにせよ、もし継続的なイノベーションを求めるなら、この他国とのギャップを再検討することから始めるべきで、そこにおいて「無償化」の優先順位が高いかは大いに疑問と言わざるを得ません。

高等教育の普及の光と影

 一方、政府は「高等教育の充実」を強調しますが、少なくとも「普及」という観点からみれば、日本のそれは多くの国を凌ぎます。図5は、25歳から34歳までの人口に占める、高等教育を受けた割合を示しています。日本ではこの年代の約60パーセントが高等教育を受けており、先述のダボス会議のランキングに登場した他の国より高い水準にあります。

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 ただし、「他国以上に高等教育が普及していること」は、先述の「予算割合の低さ」と結びつくことで、「一人当たりへの教育投資の減少」をもたらします。文部科学省によると、日本の場合、2009年段階の在学者一人当たりの公的な教育支出(機関補助)は、初等・中等教育では7779ドルで先進国平均(7745ドル)とほぼ変わりませんでしたが、高等教育では6102ドルで、こちらは先進国平均(8810ドル)を大きく下回りました。

 つまり、日本では「大学や学生が多いこと」と「高等教育向けの予算が少ないこと」がかみ合った結果、学生一人ひとりにかけられるコストが乏しいのです。言い換えれば、「質より量」になりがちといえます。

 「質より量」が日本の方針というなら、それでもいいでしょう。しかし、くどいですが政府はイノベーションを生む教育・研究を求めます。つまり、政府の言い分は「質も量も」という、ないものねだりにしか聞こえません

 従来以上に「質の向上」を図るなら、大学の数を減らすか、資金を増やすことが避けられません。しかし、いずれも困難なことは目に見えています。いずれかの道に進むことは、それこそ「政治決断」がなければできないことです。

 この構造的な問題を無視したまま、官邸主導でとってつけたように打ち出された「無償化」は、低所得世帯の学生にではなく、その人たちを受け入れる大学に授業料などを提供するもので、学生不足に悩む主に地方の大学にとって(必ずしも多くないものの)事実上の補助金にはなり得るでしょうが、少なくとも政府文書で暗示されているイノベーションや競争力との直接的な関係は不明なままです。

「無償化」は誰のためか

 念のために繰り返せば、低所得層にも機会を付与する「無償化」そのものの意義は認められるべきでしょう。しかし、それは日本の高等教育が直面する幾多の課題の一つで、それを優先して打ち出すなら、それなりの必然性や理由づけを行う必要があります。ところが、少なくとも政府文書からはそれをうかがうことができません。

 日本の高等教育が置かれた現状を度外視して、自らが強調する「人づくり革命」や「生産性革命」にもたらす影響が限定的な「無償化」だけ力説するという対策は、付け焼刃のような、控えめに言ってもちぐはぐなものです。必然性や理由づけが不明確な政策は、かえって「弱者にやさしい」というイメージ戦略に傾く政権の姿勢を浮き彫りにするものといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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