パレスチナ「オブザーバー国家」承認の意味

パレスチナ問題の深淵

11月29日、ニューヨークの国連総会で、パレスチナの現在の「オブザーバー機構」という位置づけから「オブザーバー国家」に変更する決議が、138カ国の賛成多数で採決されました。今回の採決は、あくまで国連内部の資格の問題で、これによってパレスチナが実質的に「一人前」の国家として扱われるわけではありません。そのため、多分に象徴的な意味合いが強いことも確かです。しかし、これは中東全体の安定に、小さくない影響を及ぼすものと見込まれます。

イスラエル-パレスチナ紛争は、半世紀以上に渡って中東最大の火種となってきました。ことの発端は2000年前、ローマ帝国によってユダヤ人たちが、パレスチナの地を追われ、世界中に離散したことにさかのぼります。その彼らが、この地に組織的に戻り始めたのは19世紀の末でした。しかし、2000年の間にこの地にはアラブ人(パレスチナ人)が住むようになっていたため、ユダヤ人は彼らから土地を買いあげて移住しました。少なくとも、最初から二つの民族が敵対していたわけではないのです。

しかし、潮目が変わったのは、第一次世界大戦でした。当時、パレスチナはオスマン・トルコの支配下にありました。敵対国ドイツと友好的なオスマン・トルコを内部崩壊を狙い、イギリスは当時トルコ人の支配下にあったアラブ人に働きかけ、反乱を起こさせましたが、その際に協力の代償として、1915年の「フサイン-マクマホン協定」で、パレスチナを含む中東一帯にアラブ国家の建設を約束しました。その一方でイギリスは、翌1916年のフランスとの間の「サイクス-ピコ協定」ではトルコ支配下にあった土地の戦後分割を、さらに1917年の「バルフォア宣言」ではユダヤ系財閥からの戦費協力の見返りとして、パレスチナの地にユダヤ人の民族的郷土(National Home)を建設すると約束したのです。

帝国主義の時代、土地の争奪は日常茶飯事でした。そして、最大の植民地帝国イギリスからすれば、ある土地にどの民族を住まわせるかくらい、意のままに操作できると考えていたのかもしれません。しかし、イギリスのこの「三枚舌外交」が、後に大きな禍根を残しました。第一次世界大戦の終結後、イギリスは三つの約束のうち、まずフランスとのそれを優先し、この地域のうち、イラク、ヨルダン、パレスチナを自らのものとしました。これにアラブ人が不満を募らせると、イラク王国、ヨルダン王国を相次いで建国し、形式的にアラブ人国家を生み出したのです。しかし、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の繋ぎ目にあり、地中海に面したパレスチナは「委任統治領」として自らの支配下に置き続けました。そのパレスチナには、イギリスとの約束のもとに、大戦後ますます多くのユダヤ人たちが移り住み始めました。そして、この頃から、大土地所有者となった豊かなユダヤ人と、貧しいパレスチナ人のいさかいが目立つようになり、イギリスは移住制限をかけましたが、祖先の地に戻ろうとするユダヤ人の流れをとどめることはできませんでした。

パレスチナの分断とイスラエル独立

そんな両者の対立が決定的になったのが、第二次世界大戦です。ナチスによる迫害を逃れたユダヤ人たちの多くは、アインシュタインのように新天地アメリカに向かいましたが、パレスチナを目指した人も数多くありました。パレスチナのユダヤ人たちは、第一次世界大戦の時と異なり、戦費協力だけでなく戦闘でも協力することをイギリスに申し出て、実際に「ユダヤ人部隊」が連合国軍の一部としてヨーロッパ戦線に送られました。一方、既にユダヤ人と敵対していたパレスチナ人は、ユダヤ人が協力するイギリスと敵対していたドイツ側につきました。

ホロコーストに象徴される迫害と虐殺が、戦後のユダヤ人に、「民族的郷土」という曖昧なものでなく、純粋な国家を建設したいという願望を、これまで以上に強く抱かせたとしても、不思議ではありません。また、戦争の勝利に少なからず貢献したという意識もあって、大戦の終結を契機に、ユダヤ人はイギリスに対して国家独立を求め、それと並行してパレスチナ人との衝突も激しさを増すようになりました。結局、状況の悪化に手を焼いたイギリスは、国連にこの問題を委ねたのです。これは植民地帝国イギリスの落日を示すとともに、イスラエル-パレスチナ紛争の直接的な契機をも生み出しました。

1947年、国連総会でパレスチナ分割を定める決議が諮られました。パレスチナをユダヤ人とパレスチナ人に、それぞれ56パーセント、43パーセントずつに分割し、さらにパレスチナ人にはヨルダン河西岸とガザという、地理的に繋がっていないエリアを割り当てる決議案は、基本的にユダヤ人を優遇する内容でした。これには、当時の国際環境が大きく影響していました。第二次世界大戦後、世界の平和と安定のために創設された国際連合は、もとは大戦の戦勝国たる連合国でした。戦後間もないこの時期、戦時中に連合国に協力したことが採決に有利に働いたとしても、不思議ではありません。のみならず、ホロコーストの記憶が鮮明なこの時期、ユダヤ人は国際的に同情の対象でした。これもあって、アラブ諸国以外の多くの支持を集めて、分割決議は採択され、翌1948年にユダヤ人国家イスラエルが独立を宣言するに至ったのです。

イスラエルの変身

イスラエル独立を受けて、周辺アラブ諸国は即刻これに軍事的に介入しました。第一次中東戦争です。以来、1973年の第四次中東戦争に至るまで、アラブ諸国はパレスチナ問題に介入しましたが、その度にイスラエルは軍事的優位を保ち続けました。2000年の悲願だった国家の回復を守る国民皆兵制と、アメリカの援助のもと、イスラエルはやがて中東随一の軍事力を誇る強国になっていきました。

しかし、当初は世界的に同情を集めたイスラエルでしたが、軍事的に強大化するにつれ、批判されることも多くなってきました。なかでも、国連決議でパレスチナ人のものとされたヨルダン河西岸とガザ地区を、1967年の第三次中東戦争で占領し、そこにユダヤ人の移住を進めたことは、植民地化を禁じる国際法に抵触するとして、非難を集めました。1993年にノルウェー政府の仲介で実現したオスロ合意により、翌年から西岸地区には暫定自治政府が置かれましたが、移住者は減るどころか増え続けました。2005年、当時のシャロン首相は、国民からの批判を受けながらもガザからの撤退は実現させましたが、西岸地区はいまだに、実質的にはイスラエルの統治下にあります。

イスラエルが、独立当初のいわば守勢から攻勢に転じた背景には、主に

  • 冷戦終結後、旧ソ連圏からイスラエルに流入するユダヤ人が急増したため、彼らに居住地を提供する必要に迫られたこと、
  • アラブ諸国だけでなく、パレスチナ解放を訴えるファタハなどの世俗的・民族的なゲリラ組織、さらにハマースなどパレスチナ人のイスラーム主義組織との度重なる戦闘から国土を防衛するために、緩衝地帯を設ける必要がイスラエル国内で唱えられるようになったこと、
  • 特に1970年代の半ば以降、他の宗教と同じくユダヤ教でも宗教復興が高まり、旧約聖書にある、神がユダヤ人にパレスチナの地を与え給うたという記述に従い、パレスチナ全土をイスラエルのものにするべきと主張する保守派が台頭したこと、
  • さらに、ヨルダン河がイスラエルにとっても主な水源であるため、西岸地区はガザより遥かに肥沃な土地であるだけでなく、ここを返してしまうと、水資源という生命線をパレスチナ人に握られることへの危機感があること、

があげられます。

これら錯綜した背景のもと、パレスチナは国際的には「国家」の扱いを受けることができませんでした。国連決議で定められた土地でパレスチナが独立するためには、イスラエルが西岸地区から撤退する必要があり、さらにオスロ合意ではパレスチナを国家として承認するかどうかは、自治政府とイスラエル政府の交渉に委ねられることになっています。しかし、イスラエルはパレスチナによる「テロ」がある以上、交渉を進めることはできないという立場を崩してきませんでした。イスラエルの立場からすると、差し迫った脅威がある状況で妥協することは自国の安全に関わるということになります。しかし、一方でこれは、「脅威」を盾に占領を続けることにもつながってきました。2001年以降、ハマースを「テロリスト」と位置づけることで、これに対する攻撃を「対テロ戦争」の文脈で正当化することも、イスラエル政府には目立ちます。

パレスチナの分裂と収斂

この状況下、パレスチナ側が国連総会への申請に踏み切った背景には、内外の情勢の変化があります。パレスチナ自治政府は世俗派のファタハが主流で、こちらは国連決議で認められた範囲での独立を目指し、イスラエルとの交渉を模索しています。これに対して、議会ではイスラーム主義のハマースが勢力をもっており、こちらは基本的にパレスチナ全土の解放を目指しており、そのためにはイスラエルとの武装闘争も辞さない強硬な姿勢が目立ちます。ハマースはガザ地区を実効支配しており、今月の14日に発生したイスラエルとの軍事衝突でのパレスチナ側の当事者は、主にハマースでした。

両者の軍事衝突は、エジプト政府の仲介で22日に停戦が合意されました。この際、イスラエル側は地上侵攻の直前にまで至りましたが、ハマースの軍事部門責任者を暗殺したことで、リスクの高い地上侵攻を回避することで合意しました。一方のハマースは、エジプト政府などからの認知と協力を取り付けたことで、いわば内外に自らの存在感を示すことができました。この「外交的勝利」の余勢をかって、イスラエルにプレッシャーをかけたいハマースと、これに対するパレスチナ内部の世論に押される形で、それまで交渉相手であるイスラエルやアメリカに一定の配慮を示していた自治政府のアッバス議長も、「オブザーバー国家」申請に踏み切らざるを得なくなった、とみられています。

もともと、ハマースはエジプトで生まれたムスリム同胞団のパレスチナ支部にルーツをもちます。しかし、ムスリム同胞団の貧者救済といった穏当な手段に飽き足らず、ここから枝分かれして、パレスチナ問題の根本的解決を目指すためイスラエルとの武装闘争を選択した組織です。しかし、従来は欧米諸国との関係に配慮するアラブ諸国、特にイスラエルやアメリカと友好関係を保ってきたエジプト政府からは、むしろ厄介者として扱われることが稀でありませんでした。ところが、2010年末からの「アラブの春」のなか、エジプトで同根のムスリム同胞団が政権を握ったことが、アラブ世界におけるハマースの立場を強めたのです。イスラエルと自治政府の交渉が難航するなか、事態の打開を目指してハマースがアラブ各国、さらにはアメリカと距離を置く各国の支持を取り付けたことが、今回の「オブザーバー国家」申請と、193カ国中138カ国という圧倒的多数の賛同をもたらしたと言えるでしょう。

この決議で日本が賛成に回る決定をしたことは、個人的には支持できるものです。ただし、これがパレスチナ問題の解決を促すか否かと問われれば、そこには消極的にならざるを得ません。良かれ悪しかれ、パレスチナ国家の樹立という、いわゆる最終地位交渉は、イスラエル-パレスチナの直接交渉で行うと双方は合意しています。既にみたように、長年に渡る敵意と相互不信により、イスラエル側も「脅威」を盾に交渉に消極的なことは確かですが、一方で圧倒的な国際世論で外交圧力を加えることは、それに譲歩を促すよりむしろその警戒感を強め、パレスチナに対する態度を一層硬化させる可能性が高くあります。実際、今月の武力衝突ではイスラエル国民の9割が政府の決定を支持しています。国際的な孤立傾向は、むしろイスラエル国民の結束を促し、外交交渉をより難航させる契機にもなり得るのです。その意味で、今回の「オブザーバー国家」としての承認は、必ずしもパレスチナ問題の解決を約束するものになるとは限らないと言えるでしょう。