韓国球界38年の代表コーチは甲子園出場の元エース 日本のプロ入り機会を数度逸すも「後悔はない」<2>
2021年夏に行われた東京オリンピック。野球日本代表「侍ジャパン」は決勝・アメリカ戦に勝利し金メダルを獲得した。その決勝前の大一番、準決勝で対戦した韓国の投手コーチが、春のセンバツに下関商高のエースとして出場し、専修大でも活躍したピッチャーだったことをご存じだろうか。
チェ・イルオン(崔一彦)60歳。日本のプロのマウンドに立つはずが一転、韓国でプロ入りし、1986年には球界のレジェンド、ソン・ドンヨル(宣銅烈)、チェ・ドンウォン(崔東原)と肩を並べる19勝4敗2セーブ、防御率1.58の好成績を残した右腕だ。
引退後は5球団でコーチを務め、38年間絶えず韓国でプロのユニフォームを着続けたチェ・イルオン。そして韓国代表チームの投手コーチを任されるまでになった、その足跡をたどる(第2回/全4回)。
⇒ 第1回(日本での高校、大学時代)
⇒ 第3回(指導者として)
⇒ 第4回(五輪での後悔と未来へ)
先輩に押され、仲間に送られ韓国へ
チェ・イルオンは専修大4年だった1983年の年末、韓国プロ野球のOBベアーズ(現トゥサンベアーズ)の球団事務所で、入団契約に関する説明を受けた。しかし西濃運輸野球部入りが決まっていたチェは、「何言っているんですか、入る気ないですよ」と答えたという。
その時、チェと一緒に韓国入りし、球団を訪れていた選手がいた。県岐阜商高から西濃運輸、ニコニコドーでプレーしていたホン・シンチャ(洪新次)、日本での名前は徳山新次。ホンはチェの3つ年上の内野手だった。チェは当時について、
「徳山さんは韓国に着いてすぐOBベアーズと契約したんだけど、俺はしなかった。そうしたらその日の夜、徳山さんに言われたんだ。『山本(チェ)、俺を一人置いて帰るのか』って、一晩中ずっと。それで、契約しちゃったんだよ」
高3の夏、仲間との海遊びから一人だけ先に帰宅し、在日選手団からの誘いの電話を受けたことで生まれた、「異国の地」への分かれ道。そこにチェは本格的に足を踏み入れることになった。
チェが日本に戻ると、専修大野球部の面々が送別会を開いてくれた。その席でメンバーがチェに向けて歌った曲、それは「イビョル(離別)」。韓国のバラード曲だった。
「俺が在日だってことをみんながわかっているなんて、その時に初めて知った。下関は地域柄、そういうこと(国籍の違い)を気にしないところだったけど、大学の仲間はそうじゃない。それに触れることが少ないところで育った人も多いから、知られたくないって思っていたんだ」
「3年生のリーグ戦で優勝した後、ハワイ遠征があった時も自分だけパスポートの色が違うのが嫌でさ、最初は『行かない』って言ったんだよ。(今村明)監督には『何言っているんだ』って叱られたけどね」
チェは仲間たちの激励を背に、プロ野球選手としてのスタートを韓国で切った。
「日本に戻る」と直訴するも
84年、発足3シーズン目の韓国プロ野球の一員となったチェ。「最初は後悔したさ。初めて野球をやめようと思った」
そんな思いの中でマウンドに上がったチェは、1年目37試合に登板、167回2/3を投げて、9勝6敗3セーブ、防御率2.84。翌85年は38試合、10勝14敗3セーブ、防御率2.43(リーグ5位)の好成績を残した。
当時のチェの投球について、ソン・イルスの登録名でサムスンライオンズに在籍した元捕手、石山一秀(元近鉄)は「コントロールがいい本格派でしたよ」と振り返る。
「向こう気の強い、逃げないピッチングをしていました。いい意味でやんちゃで自信家。『なにくそ』といった感じで投げていましたよ。まだ若かったので、もし日本のプロに行っていたら2軍だったら十分。時間かけたら1軍でもやれたんとちゃいますか」
日本から韓国入りした先輩たちの「日本でもやれるぞ」の言葉に、チェは85年のオフ、自身2年目のシーズンを終えて球団に直談判した。
「辞めさせてください。他のチームに行くのではありません。日本に戻ります」。しかし、球団首脳は首を縦に振らない。2ケタ勝利が計算出来る投手を手放すわけにはいかなかった。
「在京球団のスカウトの人から『自由契約になったら動いていた』と、後から聞きましたよ」。チェはさばさばとした口調で、当時を思い返した。
チェは退団を直訴した翌年(86年)、13完投のうち6完封の大活躍でリーグ2位タイの19勝をマーク。防御率1.58は球界の大エース、ソン・ドンヨル(0.99)、チェ・ドンウォン(1.55)に次ぐ数字だった。
「19勝しちゃって、『日本で投げる』というのはその時に完全に諦めましたね」
この年の大活躍がチェにとって人生の大きな節目となった。
最強軍団に13連勝
先発投手として好成績を残したチェは、リーグ4連覇の最強軍団・ヘテタイガース(現KIA)に強い、「ヘテ・キラー」でもあった。86年5月から88年7月まで対ヘテ戦13連勝を記録している。
そのヘテの中心選手で本塁打王3回、打点王2回、2度のリーグMVPに輝いたキム・ソンハン(金城漢、元KIA監督)は、当時のチェの投球を細かく記憶していた。キムは強打者というだけではなく、リーグ発足当初は「二刀流」としてシーズン10勝を記録した元投手でもある。
「その頃、他の投手の変化球はスライダーかカーブくらいだったのが、チェ投手の球種はとても多彩でした。ストライクゾーンだけで勝負するのではなく、ワンバウンドするような低めを誘い球にしてきたり、内角を突く速球を交ぜてくる当時の韓国にはいないタイプの投手でした」
「チェ投手がヘテに強かったのには理由があります。我々はとてもいい打者が多くて、みんなが積極的にどんどん振っていく打線でした。チェ投手はそれを逆手に取って、交わしていく投球をしていました。頭脳派でしたね。私もチェ投手には苦戦した思い出があります」
さらにキムはチェのことを「いい人物」と評した。
「挨拶や礼儀がちゃんとしていて、きちんとコミュニケーションが取れる選手でした。だから私を含めてみんな、チェ投手のことを『在日だ』というような特別な目で見たことはなかったです。誰とでもいい人間関係を築いていたんじゃないかと思います」
3年目に訪れた考え方の変化
チェにとって韓国は、祖父母の故郷で自身のルーツの場所ではあるが、初めは後悔して過ごした異国の地。しかしチェは韓国生活3年目あたりから考え方に変化が訪れたと話した。
「韓国では人々の海外に向けた視野の広さに驚いた。子供の進路に『留学』を考える親がものすごく多いんだ。日本で留学について聞くことはほとんどなかったからね」
「そして自分の人生の細かいところを意識しなくなった。昔は在日について人がどう思うのか気にしていたのが、そういうことが気にならなくなった。それは韓国に来てからの自分の変化としてすごく大きい。そのまま日本でやっていたらもっと小さい人間のままだったかもしれないね」
当時、日本での実績を引っ下げて韓国に行った選手の姿は、悲愴感を前面に伝えられることが少なくなかった。しかし、大学新卒で海を渡ったチェの場合、それとは少し異なる。韓国で経験、実績、広い視野を得て、選手そしてのちの指導者として必要なことを身につけていった。
(つづく。文中敬称略)
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