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福島の23歳・元BCリーグ選手と原発事故で離れた故郷の双葉郡を訪ねる

室井昌也韓国プロ野球の伝え手/ストライク・ゾーン代表
昨季の試合後、ちびっ子ファンとハイタッチする畠山侑也(写真:ストライク・ゾーン)

昨年、ルートインBCリーグの福島レッドホープスに所属した韓国人選手、キム・ウォンソク外野手(元ハンファ)はリーグ5位の打率3割4分8厘、チームトップの12本塁打、55打点を記録する活躍を見せた。

韓国で居場所を失い日本に活動の場を求めたキム・ウォンソク。そのキムと公私ともに誰よりも長い時間一緒に過ごしたのがチームの後輩、畠山侑也(23)だった。

キム・ウォンソク(左)と畠山侑也(写真:ストライク・ゾーン)
キム・ウォンソク(左)と畠山侑也(写真:ストライク・ゾーン)

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畠山はいわき光洋高、千葉経済大から2018年11月にBCリーグのドラフト地元枠でレッドホープスに入団した右打ちの内野手。彼は福島県の双葉郡富岡町の出身だ。

2011年3月11日、畠山が中学2年生の時に東北地方太平洋沖地震が発生。福島第一原子力発電所の事故によって、原発から半径20キロ圏内で暮らしていた畠山と家族は避難を余儀なくされた。

あれからもうすぐ9年。以来、故郷を離れた畠山とともに富岡町がある双葉郡を訪ねた。

更地となった自宅、様変わりしたグラウンド

畠山が家族と移住したいわき市から富岡町までは、車で国道6号線を北上すること約1時間。すれ違う車の多くがトラックで、車体前面には「環境省 除去土壌等 運搬車」という緑色のゼッケンがつけられていた。

畠山が暮らした自宅、通った小中学校は2017年4月に避難指示、居住制限が解除されている。しかし自宅は更地となり、また学校は使用されず、校庭には大気中の放射線量を測定する、モニタリングポストだけが動いていた。

「前は『2.…』とかだったんですけど、それに比べると減っていますね」(畠山)

この時の測定器の数値は毎時0.154マイクロシーベルトを表示していた。

小学校の校庭にあるモニタリングポスト(写真:ストライク・ゾーン)
小学校の校庭にあるモニタリングポスト(写真:ストライク・ゾーン)

畠山が野球を始めたのは高校球児だった父の影響だ。

「3歳くらいから野球を始めて、小学生になってすぐに少年野球に入りました。お父さんはコーチをやっていてスパルタ。時間があれば家の前でキャッチボールして、雨の日は和室でティーバッティングを畳が擦り切れる程やりましたね」

中学生になると硬式球を使う相双中央リトルシニアに入団。浪江町高瀬の練習球場までは約20キロあるが、週3回の練習には両親、時には祖母が車で送り迎えをし、家族みんなで畠山をサポートした。

子供たちがボールを追いかけ、親たちは味噌汁を手作りして見守った思い出の球場。しかしそこに当時の面影はなかった。

ススキが伸び放題になったグラウンド(写真:ストライク・ゾーン)
ススキが伸び放題になったグラウンド(写真:ストライク・ゾーン)

「これ全部、ススキですね」

グラウンド、そしてスタンド一帯はススキが伸び放題。バックネットとベンチ、スコアボードの存在が、そこが野球場であったことを表していた。

精神的苦痛や差別を乗り越えた今

畠山は震災当日のことを振り返った。

「午前中、先輩たちの卒業式に出て、午後は次の日のシニアの試合に備えていました。3時になったらランニングとティーバッティングをしようと思って、家で『ミヤネ屋』を見ていたらものすごく揺れて。玄関に行くこともできず、1階の窓から裸足のまま外に飛び出しました」

家族は幸い全員無事。震災当日は祖父母の家に一家で集まり、翌日に避難指示が出ると、隣接する川内村に避難した。その後、県外にある父親の実家や親戚の家などを転々とし、祖父母の「できるだけ富岡町に近いところに住みたい」という希望を優先していわき市へと移住した。

畠山の旧自宅近く、夜ノ森駅周辺は今も帰還困難区域に指定されている(写真:ストライク・ゾーン)
畠山の旧自宅近く、夜ノ森駅周辺は今も帰還困難区域に指定されている(写真:ストライク・ゾーン)

いわきに移り住んでからも畠山は硬式野球に打ち込むことができた。新たに所属した郡山のシニアチームの練習まで、毎週土日、往復約160キロを両親が送ってくれたからだ。

畠山の母・理絵子さん(44)は当時を振り返る。「送り迎えは大変でしたけど、野球をやらせてあげたいと思ったので、苦ではなかったですね」

畠山と母はどちらも明るく、会話をする間、笑顔が絶えない。ただ、今だから話せることもある。

「前までは仕事も家も失って精神的にやられてしまい、『震災がなければ』という気持ちが大きかったです。今は日常の生活を取り戻せるようになって、『震災があったから』いわきに引っ越して今があると思えるようになりました」(理絵子さん)

また畠山は「避難してきたことで差別的な言葉を言われることもあったので、それがきつかったです。どこの出身か言いたくなくて、富岡町出身であることをごまかした時期もありました」と振り返る。

しかしBCリーグでプレーする中でその考えが変わっていった。

「自分のことを知った富岡町の人がいっぱい応援に来てくれて、富岡町出身だと言うことが町の人にとってプラスになると感じました。隠したら町の人に申し訳ないとも思い始めました」

畠山は知らないうちに、自分の存在が離れ離れになった富岡町の人々をつないでいた。

バットを置いて踏み出す新たな第一歩

昨秋、畠山は球団に退団を申し入れた。畠山は昨年の開幕前に右ひじ痛を発症。手術という選択もあったが注射治療でシーズンを過ごしていた。しかし症状は悪化する一方で満足なスイングはできず、持ち前の長打力を発揮することはできなかった。

そして畠山と苦楽をともにしたキム・ウォンソクもチームを離れた。キムは今、11~1月にリーグ戦を行うオーストラリアのリーグ(ABL)でプレー中だ。ニュージーランドに本拠地を置くオークランド・トゥアタラに所属するキムは8本塁打(リーグ3位)、28打点(同5位)をマークしている(1月23日現在)。

「キムさんがオーストラリアで活躍している映像を見ると、まだ野球をやりたい気持ちにはなります。でもこれまでずっと中途半端にならずに練習をやってきて、やり切ったと思うので、後悔なく野球を辞めて就職しようと決めました」

これまで野球以外の職業を考えたことがなかった畠山。しかし、彼には取り組みたいことがある。

「復興に興味があります」

彼は今、地元に貢献できる就職に向けた準備をしている。

更地となったかつての自宅前で話す畠山(写真:ストライク・ゾーン)
更地となったかつての自宅前で話す畠山(写真:ストライク・ゾーン)

母・理絵子さんにこれまでに息子が野球をやってきた姿の中で、一番印象に残っていることを尋ねると、ホームランや勝利の瞬間ではないシーンを挙げた。

「仲間に声を掛けていたところですね。自分よりも相手を思いやれる心があることがすごいなということと、自信があって余裕がなければできないと思うので」

畠山のかつての自宅近くにある常磐線・夜ノ森駅周辺は3月10日に避難解除になる。その夜ノ森駅を含む富岡-浪江駅間は原発事故以来不通になっていたが、3月14日に運行再開が予定されている。

震災以来不通になっている富岡-浪江間(写真:ストライク・ゾーン)
震災以来不通になっている富岡-浪江間(写真:ストライク・ゾーン)

これで常磐線は9年ぶりに全線で運行。東京から仙台までの太平洋沿岸を走る線路が一つにつながる。

運転再開に向け、富岡-浪江間では試運転が行われていた(写真:ストライク・ゾーン)
運転再開に向け、富岡-浪江間では試運転が行われていた(写真:ストライク・ゾーン)
新しい駅舎、ホームの工事が行われている夜ノ森駅(写真:ストライク・ゾーン)
新しい駅舎、ホームの工事が行われている夜ノ森駅(写真:ストライク・ゾーン)

畠山は母校の正門前に立ち、こう話した。

「中学校の前のこの桜並木は本当にきれいなんです」

バットを置いた畠山はこの春、新たな一歩を踏み出す。

母校正門前の桜並木に立つ畠山(写真:ストライク・ゾーン)
母校正門前の桜並木に立つ畠山(写真:ストライク・ゾーン)

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韓国プロ野球の伝え手/ストライク・ゾーン代表

2002年から韓国プロ野球の取材を行う「韓国プロ野球の伝え手」。編著書『韓国プロ野球観戦ガイド&選手名鑑』(韓国野球委員会、韓国プロ野球選手協会承認)を04年から毎年発行し、取材成果や韓国球界とのつながりは日本の各球団や放送局でも反映されている。その活動範囲は番組出演、コーディネートと多岐に渡る。スポニチアネックスで連載、韓国では06年からスポーツ朝鮮で韓国語コラムを連載。ラジオ「室井昌也 ボクとあなたの好奇心」(FMコザ)出演中。新刊「沖縄のスーパー お買い物ガイドブック」。72年東京生まれ、日本大学芸術学部演劇学科中退。ストライク・ゾーン代表。KBOリーグ取材記者(スポーツ朝鮮所属)。

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