沖縄・巨人キャンプ地にある 10万人超の命を救った兵庫出身「野球人」の記念碑

島田叡氏顕彰碑からセルラースタジアムを望む(写真:ストライク・ゾーン)

沖縄・那覇市内を走る沖縄都市モノレール「ゆいレール」。起点の那覇空港駅から3駅目、奥武山(おうのやま)公園駅は巨人が春季キャンプを行う、沖縄セルラースタジアム那覇の最寄り駅だ。

プラットホームの眼下にはサブグラウンド、その先には大きなスタジアムが望め、照明塔越しにグラウンドまで目にすることができる。野球好きにはたまらない景色だ。

駅の階段を降りると球場につながる、きれいに整備された遊歩道がある。巨人が同地でキャンプを行うようになって以来、数年前から幾度も歩いてきたこの道。しかしその場所に「野球人」の記念碑があることを知ったのは、恥ずかしながら今月に入ってのことだった。

決死の覚悟で赴任した沖縄県知事

知るきっかけとなったのはスポーツニッポンの内田雅也編集委員が書いた、2月4日付けの連載コラム「広角追球」(大阪紙面掲載)だった。

内田編集委員はコラムの中で「島田叡(あきら)氏顕彰記念碑」を紹介した。

(参考記事:「沖縄でキャンプを張る意味を考えたい」 スポニチ Sponichi Annex)

琉球石灰岩の台座に平和やボールをイメージしたステンレスの球体を組み合わせた、高さ2.8メートルの顕彰碑(写真:ストライク・ゾーン)
琉球石灰岩の台座に平和やボールをイメージしたステンレスの球体を組み合わせた、高さ2.8メートルの顕彰碑(写真:ストライク・ゾーン)

島田叡氏(享年43歳)は沖縄戦が始まる2ヶ月前の1945年1月、住民による投票ではなく内務省からの異動(官選)で沖縄県知事となった人物。大阪府内政部長だった島田氏は米軍が迫る沖縄への赴任を引き受け、約5ヶ月の任期中、決死の覚悟で県民の命を守った。

制空権、制海権を握られた状況下、自ら台湾に渡って県民のために食糧を調達。また本島北部、九州への疎開を推進したことで地上戦を逃れた10万を超える人々が命を救われた。

県民の4人に1人、約15万人が犠牲になったという沖縄戦。もし島田氏が知事として尽力していなければ被害はそれ以上になったと言われている。

知事であり中、高、大学とプレーを続けた「野球人」

その島田氏の顕彰碑が奥武山公園にある理由。それは島田氏が野球人であり、奥武山公園が沖縄の野球の聖地だからだ。

島田氏は旧制神戸二中(現・兵庫高)、三高、東京帝国大(現・東京大)で野球部に在籍。左打ちの俊足外野手として活躍し、大学在学中には三高野球部の監督も務めた。

その島田氏の名は東京ドーム内の野球殿堂博物館にある「戦没野球人モニュメント」にも刻まれている。このモニュメントは戦没した旧制中等学校野球の本大会出場者、大学野球リーグ戦出場者、都市対抗野球本大会出場者を慰霊するための碑だ。

167人の名が記された「戦没野球人モニュメント」(写真:ストライク・ゾーン/撮影協力:公益財団法人 野球殿堂博物館)
167人の名が記された「戦没野球人モニュメント」(写真:ストライク・ゾーン/撮影協力:公益財団法人 野球殿堂博物館)

島田氏が野球に打ち込んだ様子については元読売新聞記者のノンフィクション作家・田村洋三氏が著書「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」(中央公論新社、中公文庫)に丹念な取材に基づき記している。

顕彰碑は野球と兵庫県への「恩返し」

内田編集委員の紹介で元沖縄県副知事であり、島田叡氏事跡顕彰期成会会長の嘉数昇明(のりあき)氏(76)と会い、顕彰碑を再訪した。嘉数氏自身も戦中、生後間もない頃に大分に疎開し戦災を逃れた一人だ。

「この顕彰碑は島田さんの出身地・兵庫に向かって立っています。母校の兵庫高校にある合掌の碑と向き合っているんですよ」。2015年に建立された顕彰碑を前に嘉数氏は穏やかな口調で話した。

島田叡氏顕彰碑の前で話す嘉数昇明氏(写真:ストライク・ゾーン)
島田叡氏顕彰碑の前で話す嘉数昇明氏(写真:ストライク・ゾーン)

沖縄と兵庫の縁は深い。1964年、兵庫高同窓会を中心とした島田叡氏事跡顕彰会が沖縄県高野連に「島田杯」のカップを贈呈。以後、沖縄の高校野球新人中央大会の優勝チームに島田杯が贈呈されるのをはじめ、中学、学童野球でも島田杯を冠した大会が行われている。

「子供たちは島田杯を通して、“最後まであきらめない、フェアプレー精神を貫く”ということを受け継いでくれています」(嘉数氏)

セルラースタジアム内の野球資料館内に展示されている「島田杯」。なお野球資料館はキャンプ期間中閉館している(写真:ストライク・ゾーン)
セルラースタジアム内の野球資料館内に展示されている「島田杯」。なお野球資料館はキャンプ期間中閉館している(写真:ストライク・ゾーン)

また沖縄、兵庫両県は1972年、沖縄の本土復帰の年に友愛提携を結び、兵庫県は1975年に「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」を寄贈。現在、巨人がキャンプ中にサブグラウンドとしている場所は「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と命名されている。

顕彰碑の側にあり、キャンプ中は巨人が使用している兵庫・沖縄友愛グラウンド(写真:ストライク・ゾーン)
顕彰碑の側にあり、キャンプ中は巨人が使用している兵庫・沖縄友愛グラウンド(写真:ストライク・ゾーン)

那覇出身で自身も中学、高校の途中まで野球部に所属した嘉数氏はこう話す。「沖縄県民は本土の人であっても、沖縄のために尽くしてくれた人への感謝の気持ちを非常に大事にしていることを示したい。そして沖縄県民、野球人の一人としてご恩返しをしたいと思っている」

嘉数氏は戦時中の知事である島田氏を「我々が勝手に解釈して過剰に美化してはいけない」と配慮しながらも、「島田さんが最期を遂げた激戦地である糸満の摩文仁の丘に、島田さんらを慰霊する“島守の塔”が地元の人たちの協力で立ったということは、死ぬことがよしとされていた時代に、県民が生き抜くために尽くした“本物”だったのではないか」と語る。

顕彰碑を見て感じる「野球を楽しめる喜び」

りゅうぎん総合研究所によると昨年2018年に沖縄県外からプロ野球キャンプに訪れた観光客は約8万4,000人と推測されるという。

プロ野球キャンプを目的に沖縄を訪れる人の多くは野球、観光を「楽しみに」している人が大半だろう。その楽しいひとときに戦禍を思うことは、楽しさに水を差すものかもしれない。

ただ、沖縄野球の聖地で、野球人・島田叡氏の生き様に触れることは、野球ファンにとって「野球を楽しめる喜び」を改めて感じられる機会になるのではないか。少なくとも筆者はそう感じている。

島田叡氏顕彰碑は多くの観光客が利用する那覇空港から、わずか3キロ弱の場所にある。

那覇空港離陸直後の機内から見た奥武山公園。手前がセルラースタジアム、奥が兵庫・沖縄友愛グラウンド(写真:ストライク・ゾーン)
那覇空港離陸直後の機内から見た奥武山公園。手前がセルラースタジアム、奥が兵庫・沖縄友愛グラウンド(写真:ストライク・ゾーン)

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