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Dr.Usuiが語る20年「若者に向けて音楽を作り続けたい」

宗像明将音楽評論家
(M)otocompoでのDr.Usui

 2017年8月29日に、Dr.Usuiの活動20周年を記念した「Dr.Usui 20周年感謝祭~Only Dr.Usui's Songs Fes.~」がShibuya duo MUSIC EXCHANGEで開催される。出演するのは、Dr.Usui、(M)otocompo、Kit Cat、妄想キャリブレーション、シンセカイセン、xxx of WONDER(オブ・ワンダー)。オープニング・アクトにはザ・にゃんとかにゃるず(空野青空+イヴにゃんローラン from Kit Cat)も予定されている。

 (M)otocompoのようなバンド、妄想キャリブレーションをはじめとするアイドル、そしてxxx of WONDERのような演奏に全員が参加しているとは限らないユニットまで幅広い顔ぶれだが、すべてDr.Usuiがメンバーやプロデューサー、あるいはソングライターとして関わっているアーティスト。しかも、8月29日はDr.Usuiの楽曲しか披露されない予定だ。

 1990年代後半にMOTOCOMPOのメンバーとしてシーンに登場し、2010年のMOTOCOMPOの活動休止後は、(M)otocompoやxxx of WONDERのメンバーとして活動する一方、作家としてアニメ「ドキドキ!プリキュア」のエンディングテーマ曲を書いたほか、でんぱ組.incや妄想キャリブレーションなどのアイドルにも多数の楽曲提供をしてきたDr.Usui。2013年にはシンセポップユニットのKit Cat、2017年にはディアステージ所属のシンセカイセンのサウンド・プロデュースを開始している。

 アーティスト、ソングライター、プロデューサーとさまざまな顔を持つDr.Usui。彼の現在の活動の全貌は「Dr.Usui 20周年感謝祭~Only Dr.Usui's Songs Fes.~」でまとめて見られるはずだが、今回はMOTOCOMPO時代から現在までの20年を振り返ってもらうことにした。

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Dr.Usui

新宿JAMでのハヤシ(POLYSICS)との出会い

――Dr.UsuiさんのMOTOCOMPOまでの音楽遍歴はどんなものだったのでしょうか?

Dr.Usui  大学で一浪、一留して大学院にも行ったけど、MOTOCOMPOがうまくいきはじめて辞めちゃって、1999年には専業ミュージシャンになりました。MOTOCOMPOは1996年にメンバーが揃って、1997年に始動ですね。学生時代は、ギター・ロックやギター・ポップのバンドをやっていて下北沢の屋根裏にも出ていましたね。後にMOTOCOMPOでやる曲も試してはいたんだけど、当時はドラマーがクリックを聴いて叩くのを嫌がったし、機材も大変で。PAさんもトラックのレベルを全然上げてくれないなど今では信じられない問題も多くあって。

――それでバンドを解散させて、MOTOCOMPOを始動させたわけですね。

Dr.Usui  カセットテープの工場を探して500本コピーして、DTPでジャケットも作って、メンバーがバイトしている雑貨店に置いたり、友達に配ったりしていたら、カセットを聴いた友達に「君たちは7月に新宿JAMに行ったほうがいい、気の合いそうなやつらが出る」と言われたんです。それで行ったら、新宿JAMに当時電話ボックスがあって、つなぎを着た変な奴が電話していて、「こいつだ!」と(笑)。それがPOLYSICSのハヤシくん。ライヴを見てカセットをあげたら翌日に電話が来て、「一緒に新宿JAMでやろう」と意気投合して、お互いの家に行くようになって、9月にはPOLYSICSの主催ライヴに呼んでもらったんです。あと実はその12月に、僕はメンバーが足りなくなっちゃったPOLYSICSのライヴに出ているんですよ(笑)。僕がギターをやったり、MOTOCOMPOのchihoがヴォーカルをやったりで。1997年12月の一度だけね。

――初期に考えていたMOTOCOMPOの方向性はどのようなものだったのでしょうか?

Dr.Usui  MOTOCOMPOはプラスチックスのフォロワーだと言われていたけど、カセットには違うタイプの曲もあったんです。ライヴではしなかったけど、The VaselinesがカヴァーしたDivineの「You Think You're A Man」もカヴァーもしていて。ニュー・ウェーヴ界隈にもうけていたし、「COOKIE SCENE」にも載せてもらったんです。「COOKIE SCENE」が最初にカセットを取りあげてくれたときは勢いづいたな。宅録だったけど評判が良くて、ライヴもするようになって。メンバーは大人計画やナイロン100℃が好きで、パフォーマンスも影響されましたね。MOTOCOMPOは本多劇場でナイロン100℃の前座をやったんですよ。今の(M)otocompoにも影響していますね。ステージに上がったら役者じゃないと恥ずかしいからね、アイドルと変わらないよね(笑)。

――MOTOCOMPOは、1998年にオムニバス「Tokyo Newwave of Newwave'98」に参加して、SPOOZYS、POLYSICSらとともにネオ・ニュー・ウェーヴのシーンを形成する存在として一気に注目されます。当時のそうした熱狂的な反応に驚きはありましたか?

Dr.Usui  嬉しかったけど、MOTOCOMPOとしてライヴをして10回目で渋谷クラブクアトロ(1999年)ですよ? 宅録から2年弱で。早かったですよね。新宿JAMで1年やって、「Tokyo Newwave of Newwave'98」が出て、発売記念イベントには新宿JAMの動員記録の350人が入って、もう演者も酸欠状態で。女の子がステージに倒れこんでくるんですよ。それで「渋谷クラブクアトロでもできるんじゃない?」って話が出て。渋谷クラブクアトロもパンパンで、メーカーも決まって、トントン拍子でしたよね。CDバブルの時代ですよ。

――MOTOCOMPOはロシア、イギリスのツアーもしていますね。

Dr.Usui  ロシアは2003年11月で、MOTOCOMPOは日本では「消えたな」と思われていた時代ですね。ポリスターとの契約が終わって、セガのレーベル(WAVEMASTER ARTISTS)とやることになって、その間だったんです。イギリスは2007年5月で、MOTOCOMPOの最後のオリジナル・アルバム(『CHIPTOP LIPS』)が2007年3月。10年前ですね。

2000年代は日本のシーンに興味がなかった

――MOTOCOMPOの音楽性が徐々にエレクトロへ変化したのはなぜでしょうか?

Dr.Usui  メジャー契約を経て、曲を増やして面白いことのヴァリエーションを増やそうとしたら、エレクトロクラッシュが来だしていて。リフレックス・レコーズのDMX Krewと知り合いになったら、「80'なエレクトロならChicks on Speedと話が合うぞ」と言われて、その界隈を見ていたらエレクトロクラッシュのムーブメントが大きくなって、それを意識していたらMOTOCOMPOは日本のシーンと乖離していったんです。僕は2000年代は日本のシーンに興味がなかったですね。広告の仕事はやっていたけれど、それは割りきっていたし、今思えばそれもいい経験でした。

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MOTOCOMPO(2001年)

――2008年に「Dr.USUI」という大文字表記の名義で初のソロ・アルバム「Datajockey」をリリースしたきっかけはなんでしょうか?

Dr.Usui  三浦(俊一)さんに「ソロやれば?」と言われたんです。三浦さんは当時ケラ&ザ・シンセサイザーズのメンバーで、三浦さんのほかのバンドを僕が手伝っていたんです。Aira Mitsukiさんが出てきたのもその頃ですね。

――「Datajockey」には、当時のフレンチ・エレクトロとの共鳴も感じます。

Dr.Usui  その辺を意識していましたね。2004年や2005年からJusticeとかがはやっていて。エレクトロクラッシュからフレンチ・エレクトロへの流れもあったしね。2007年はすごく仕事をしていて、父親も亡くなって忙しかったけど、2008年はリーマンショックで仕事が減って、1週間か10日間で「Datajockey」を作ったんです。リーマンショックを語るミュージシャンはなかなかいないと思うけど(笑)。

――「Dr.USUI」としてソロで海外のフェスにも出演しましたが、感触はどんなものでしたか?

Dr.Usui  「MOTOCOMPOが去年出たフェスに間に合うかな?」と音を送ったら出演が決まって。ひとりでどうやるか、吉祥寺で試してみてね(笑)。それでイギリスのフェスに出たら、僕の前が全英チャート2位のSam Sparroで。わかりやすく言うと当時のイギリスにおいて彼は「エレクトロの平井堅」みたいな人で、ヒット曲も持っていたから、僕が出たらいきなり人が減ってね(笑)。すごい経験でしたね。帰ってきてバニラビーンズと出会って楽曲提供やリミックスを担当させてもらって(2008年『Shopping ☆ Kirari 〜掟ポルシェ+Dr.USUI Waterfront Mix〜』など)、今に繋がる流れができて。

MOTOCOMPOの真逆に振れた(M)otocompo

――そして2010年、MOTOCOMPOの活動休止後に、MOTOCOMPOからのスピンオフユニットである(M)otocompoが始動します。男性メンバー全員がボーダーのTシャツとメガネを着用するスタイルはどこから生まれたのでしょうか?

Dr.Usui  MOTOCOMPOのときからボーダーは着ていたんです。最後のライヴでは完全ハンドメイドで限定生産で販売して、刺繍のワッペンも作ったんです。(M)otocompoのOTOCOたちが集まったときに着たら、オーダーメイドだから衣装に見えて、「これでいいじゃん」って(笑)。メガネも黒縁ではないにしろMOTOCOMPOからかけていて、「chihoとメガネ男子」だったんです。MOTOCOMPOのコンセプトをほぼ1997年時点でchihoが考えていて、(M)otocompoでもやっているだけですね。伝統芸能として(笑)。

――スカとエレクトロを融合した音楽性はどこから生まれたのでしょうか?

Dr.Usui  皆今でこそみんなエレクトロを好きだけど、当時は界隈が狭くて。(M)otocompoでは、エレクトロだけじゃうけないので、もう一個ロックフェスに出られるジャンル・ミュージックと掛けあわせようと思ったんです。エレクトロだけどクールじゃなくて熱くやれば、シンセ・ミュージックを聴かない人にも伝わるんじゃないかと実験したんですよね。スカなら、2トーンがニュー・ウェーヴと近接していたように混ざるんじゃないかなと思ったんです。MOTOCOMPOの裏打ちの曲をやってみようとしたのが2010年の暮れ。ライヴでやってみたら、東京では全然うけなかったけど関西ではうけて。MOTOCOMPOは関西でうけなかったですよ。

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(M)otocompo(2017年4月30日に下北沢ケージで行った『屋外型ヘッドフォンコンサート』にて)

――(M)otocompoというと、あの独特の暑苦しさと「くどさ」とユーモアがポイントだと感じます。

Dr.Usui  それはMOTOCOMPOにはなかったものですね。MOTOCOMPOはあと2年やるつもりだったけど止まってしまって、スピンオフとして(M)otocompoを始めたら面白くて、作家と平行してやることになったんです。(M)otocompoは、うまく動かせば面白くなるんじゃないかと、練習の代わりにライヴをたくさんやったんです。地下アイドルと同じですね(笑)。1年で「ミナミホイール」で満員になりだすんですよね。名古屋の「SAKAE SP-RING」にも、MOTOCOMPOのプロフィールを付けて送ったら受かって(笑)。でも「この演奏の低レベルはヤバいな」とライヴの場数を積んで。あまりに歌も音が外れて酷かったんで「だったら気にしないで叫ぼう」という発想で開き直ってやったらうけましたね。(M)otocompoがくどいのは曲が少なかったから(笑)。MOTOCOMPOの真逆に振れてきて、「ミナミホイール」で大うけして東京でも動員が増えて、楽しくも大変でしたね。いまだに「東京に住んでる関西のバンド」って言っています(笑)。MOTOCOMPOがうけなかったのをひっくり返したとも言えるし、たまたま振りきったとも言えますね。若手のバンドは今関西のシーンから出てくるし、一世代、二世代下のメンバーとやったので、今のバンドに詳しくなりましたね。

――そもそも(M)otocompoのメンバーはどうやって集まったのでしょうか?

Dr.Usui  カツメンは、1999年の渋谷クラブクアトロの前の週に対バンで出会っていたんです。何回か離れたりしながら、MOTOCOMPOのラスト・ライヴのサポートもしてくれて。2007年8月から僕が「Switched On!」というライヴ・サーキットを始めて、カツメンがDJで来てくれたり、2010年に後のOTOCOたちみんな出入りしていたんです。そこで召集令状のメールを8人に出して(笑)、定着したのが5人かな。MOTOCOMPOのサポート・メンバーのカツメンや、MOTOCOMPOのオリジナル・メンバーのDaisukeくんに送って、残りは「Switched On!」に集まっていた吉祥寺周辺の若い奴らでしたね。平野きのこは、当時は音楽好きのシャイな少年でしたよ。

牧村憲一さんにいつか認められたい

――2010年以降で(M)otocompoと並んで大きかったのは、作家、プロデューサーとしての活動の本格化です。利根川貴之さん、坂和也さんとのWicky.Recordingsの一員として、アニメ「ドキドキ!プリキュア」のエンディングテーマ曲(『この空の向こう』『ラブリンク』)の作編曲も手がけます。

Dr.Usui  最初の「この空の向こう」は、MOTOCOMPOの2000年の「DISCOTHEQUE MURDER」が売れなくて評価されなかったから、それをやってやろうと思ったんですよ。締め切りまで5日しかなくても「絶対書こう」と思って自分の一番得意なものを出しましたね。「もう一度勝負したい、『DISCOTHEQUE MURDER』で」って。利根川くんの詞のアイデアも「これだ!」っていうもので、僕らが十数年くすぶらせていたものを合わせて、2日ぐらいで作ったのが良かったんです。

――なぜ「DISCOTHEQUE MURDER」にそんなに思い入れが強いんですか?

Dr.Usui  事務所の牧村さん(牧村憲一。音楽プロデューサーとしてフリッパーズ・ギターなどを世に送りだしたことで知られる)によく飯に連れていってもらったんですよ。「DISCOTHEQUE MURDER」のレコーディングのときは、YMOも手がけたエンジニアの寺田(康彦)さんの音源を没にして、僕らでやり直したんです。それを見ていた牧村さんに「今の君はコロムビア末期の大瀧(詠一)だね」と言われたんですよね。そのときは、僕も大瀧さんは大好きだからいい気分だったけど......。「DISCOTHEQUE MURDER」が引っかかっていたのはいろんな要因があるけど、MOTOCOMPOがセガのレーベルから出したときは全盛期の数分の一のセールスで、その次がさらに半分になったんです。そのとき気づいたんですけど、あのとき牧村さんは「『LET'S ONDO AGAIN』になるよ」と遠回しに言ったんだと思うんですよ。商業音楽としてダメだよ、と。

――大瀧詠一さんの「LET'S ONDO AGAIN」は、今でこそ名盤と誉れ高いけれど、当時の売り上げは......。

Dr.Usui  数百枚ですよ。牧村さんは、僕がプロになって最初にかまってくれた大御所で、勝手に親父的な人と思っていて。牧村さんにいつか認められたいんですよ。それが「ドキドキ!プリキュア」で「DISCOTHEQUE MURDER」をやった理由です。ラーメン屋で牧村さんが語ってくれたヒット曲の作り方を、後でパッと思いだして心に強くメモしていたんですよ。「この空の向こう」に利根川くんが「プププ プリキュア!」という歌詞をつけてくれて、僕が牧村さんに教わった法則の通りのやり方だったから、「すごいのが来たな」と予感があって、次の週に採用が決まったんです。利根川くんは別のところでデビューしたけどほぼ同年代で、「隣のクラスにも悩みながら走ってきた奴がいたんだな」と思いましたね。偶然かもしれないけれど、利根川くんもヒット曲の作り方を身につけてきたのかな、って。

――2013年には、でんぱ組.incの「少女アンドロイドA」の作編曲をしていますね。

Dr.Usui  アイドルは音楽を始める前に聴いていたし、子供の頃のアイドルがしみついていて全然抵抗はなくて、バンドと同じぐらい好きなんです。「この空の向こう」の3か月後には「少女アンドロイドA」を作っているんです。でんぱ組.incのデビューのときに利根川くんが見にいって、「面白いよ」と教えてくれて、「アイドルやろうよ」という機運が高まって。(M)otocompoでは、でんぱ組.incファースト・アルバム(『ねぇきいて?宇宙を救うのは、きっとお寿司…ではなく、でんぱ組.inc!』)とTomato n'Pineがはやっていて、平野きのこは初期のでんぱ組.incによく行っていましたね。彼からすると、好きなアイドルにすぐ僕が曲を書いたんで驚いていましたね(笑)。

オタクの「感じとる力」を信じないのは違う

――そして、でんぱ組.incと同じくディアステージから生まれた妄想キャリブレーションの楽曲も手がけることになります。

Dr.Usui  ディアステージのもふくちゃんが、利根川くんに「新しいグループをお願いできますか?」と言ってくれてやることになって。最初の1曲は僕が作曲した「いつだって世界にファイティングポーズ」で、そこからZepp Tokyoのワンマンライヴ(2016年1月1日)まではWicky.Recordingsでやれたから良かったなと思いますね。僕のMOTOCOMPOや、利根川くんのRoboshop Maniaが、メジャーまで行ったノウハウが妄想キャリブレーションには入っていましたね。Wicky.Recordingsの3人合わせて60年の経験値は、他にはなかなか見当たらないのではと思います。牧村さんの言葉もありがたかったし、答え合わせをすると牧村さんは正しいんですよね。

――Wicky.Recordingsとはどんなチームだと思いますか?

Dr.Usui  普通の作家チームじゃないですよね。ライヴやCMの現場で叩きこまれてきたし、そこが最近の作家としては浮いている点じゃないですか? 今のアイドルって、ライヴで勝たないといけないしブランディングも考えなくてはいけない、それを利根川くんも坂さんも僕も意識して作っていましたね。妄想キャリブレーションでも、またいつでも打席に入れるようにしていたいですね。

――さらに2013年にはKit Cat、2017年にはシンセカイセンのサウンド・プロデュースを開始しています。2016年にはNAOMiRUSTYのサウンド・プロデュースもありました。アーティスト単位で手がけるのは、楽曲提供とどんなところが異なるでしょうか? ちなみに私はNAOMiRUSTYでは「観光」が大好きでした。

Dr.Usui  NAOMiRUSTYの「観光」は、最近(M)otocompoでもカヴァーしようとしたらメンバーに流されましたね(笑)。単体でやると、世界観を作れるのはいいですね。利根川さんは王道のストレートを投げるけれど、僕は妄想キャリブレーションの「魔法のジュース」みたいに、変化球や魔球とかだしね(笑)。Kit Catは、2007年、2008年の後期のMOTOCOMPOの続きだと思っているんですよ。初期MOTOCOMPOの続きは(M)otocompoですね。Kit Catは僕もメンバーみたいな感じでプロデュースしていて、バンド的にやっている感じです。シンセカイセンは名前を変えるところからやって(旧名は『PRP』)、うまくいかなかった彼女たちの人生へのリベンジなんです。彼女たちの「ハカイノウタ」も、利根川くんと僕がメンバーと話して、想いを汲みとって作りました。今までの彼女たちの曲とつながるようにして、「EDMもこうやるとオタクに受けるな」と考えてね。リア充の匂いのしない僕がパリピの音楽をね(笑)。秋葉原もクラブも好きなおじさんとして(笑)。オタクは頭がいいから、彼らの感じとる力を信じないのは違うと思うんです。1分近いビルドアップを作っているけれど、そこが肝で、今ではそこでオタクがエモまって泣いてくれていて。やりようはあるし、チャレンジは大事だと思いましたね。ヘトヘトになるけど(笑)。

――「ハカイノウタ」は、エレクトロなサウンドに「泣き」のメロディーで、妄想キャリブレーションの「悲しみキャリブレーション」をシンセカイセンでやろうとしているのかと思いました。

Dr.Usui  それは意識してないけど、マイナー調だし、絶対に生で歌わせることにこだわって骨太に作りましたね。メンバーたちの気迫や力、オタクのみんなの気持ちも大きいですね。

――2014年には、南波志帆さん、フレネシさん、岸田メルさん、Julie Wataiさんとともにxxx of WONDERを結成しましたが、今後の活動は予定されているのでしょうか?

Dr.Usui  メンバー内のコンセンサスが得られれば、もう一回やりたいな。フレネシさんと温めている曲があるので出したいな。xxx of WONDERの活動は、リリース・イベントとインディー系のフェスに出た程度だったけど、レーベルによると後から売れているそうなので、続きをやりたいです。

サブカルチャーをやっているのは自分の誇り

――駆け足ですが、ここまで20年を振り返っていかがでしたか?

Dr.Usui  ありがたいことに、ここはしばらくはアーティスト的な活動が多くなって、名前が出ることも多くなって。それまでは「何やってるんだあいつ?」と思われていた時代もあったと思うけど、そのぶん海外でもいろんな経験をさせてもらって、よくやったなと思いますね。とりあえず墜落しないように人力飛行機を漕いでいて(笑)。あと何年かはやっていきたいですね。

――「あと何年か」でいいんですか?

Dr.Usui  夢は、60代で白髪になったDr.Usuiが、ティーンエイジャーのアイドルやバンドマンと音楽をすることなんです。それが完成形ですね、まだ「Dr.感」が足りないんで(笑)。細野(晴臣)さんも若い人とやっているじゃないですか? そういう60代になりたいですね。問題はそこまでをどうするかですね。でも、若者の音楽をやりたいですね、ピンチケが僕の曲で湧いてますから。10年後、20年後も同じようにやっていたいですね。利根川くんは、20年前はまだ友達じゃなくて、1999年の「Olive」でMOTOCOMPOの次のページに載っていたんです。Roboshop Maniaは「Olive」に連載を持っていてね。クラスが違う人だったけど、若者に向けて音楽を作っていて、今もやっている人は他にあまりいないかな? そういうサブカルチャーをやっているのは自分の誇りですね。牧村さんにいただいたものを、若い人にあげたいなと思います。

――「Dr.Usui 20周年感謝祭~Only Dr.Usui's Songs Fes.~」はどんなイベントになればいいと思いますか?

Dr.Usui  面白いんですかね?(笑)

――ちょっと! 途中で喫茶店を変えるほど長く話しておいて!(笑)

Dr.Usui  20周年ということで周りの人が進めてくれたのもあり、ただやってみたかったことをやってみる感じです(笑)。同じDr.Usuiという人でも、曲が似ていたり似ていなかったりするのを発見してくれると嬉しいけど、まずは楽しんでくれるといいですね。「シンセカイセンのこの曲、Kit Catのこの曲と元ネタ同じじゃね?」とか(笑)。20年もやっていて「たいしたもんだな」とか「たいしたことないな」とかね(笑)。

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音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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