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「ウェルカム」な空気感が呼ぶ「仲間」たち BiS、SCK GIRLSら出演「女川町復幸祭2017」

宗像明将音楽評論家
「女川町復幸祭2017~ぜんぶ女川のせいか?~」での女川潮騒太鼓轟会

10回目の女川町訪問

今から書くのは約1か月半ほど前の話だ。その舞台、宮城県の女川町ほど未来へと突き進んでいくスピードが早い町はない。少し目を離した隙に、女川町はどんどん変化していく。これから書くのは、そんな女川町での出来事だ。

2017年3月19日、宮城県の女川町で「女川町復幸祭2017~ぜんぶ女川のせいか?~」が開催された。

2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた女川町。津波で住民の10人に1人が亡くなり、街の83%が倒壊した町だ。しかし、現在の女川町は「被災地」という一言では片づけることができない。若い世代を中心として女川町は新たな町づくりを目指し、急速な復興を果たしてきたからだ。もちろん、そこには女川町の人々の並々ならぬ努力が隠されていることを忘れてはならない。しかし、女川町の人々はことさらにそのことを口に出さない。彼らは私が行くと、ただ一言だけ言ってくれる。「おかえりなさい」と。

女川町はUR都市機構とパートナーシップ協定を結び、UR都市機構がまち全体の復興を包括的にサポートしている。UR都市機構が手がける同規模の開発事業は通常10~20年を要するが、女川町はその半分の時間で成し遂げる計画だ。2015年3月21日にはJR石巻線が女川駅まで復旧し、遂に電車で女川町の中心部へ行けるようになった。それ以降、女川駅前のプロムナードには新しい建物が次々と建築されている。

初めて私が女川町の地を踏んだ2012年以来、今回で10回目の女川町訪問となった。これまで過去9回の女川町レポートは以下の記事を参照してほしい。

2012年9月23日「おながわ秋刀魚収穫祭2012」

おながわ秋刀魚収穫祭@女川町総合運動公園第2多目的運動場

2013年3月24日「女川町復幸祭2013」

また、女川で会いましょう。 カーネーション、BiS出演「女川町商店街復幸祭2013」レポート(前編)

また、女川で会いましょう。 カーネーション、BiS出演「女川町商店街復幸祭2013」レポート(後編)

2013年9月22日「おながわ秋刀魚収穫祭2013」

「また、女川で会いましょう!」と彼女は言った BiS出演「おながわ秋刀魚収穫祭2013」レポート前編

「また、女川で会いましょう!」と彼女は言った BiS出演「おながわ秋刀魚収穫祭2013」レポート後編

2014年3月16日「女川町復幸祭2014」

いつかまた、女川で会いましょう。 BiS、大森靖子など出演「女川町復幸祭2014」レポート(前編)

いつかまた、女川で会いましょう。 BiS、大森靖子など出演「女川町復幸祭2014」レポート(後編)

2014年9月21日「おながわ秋刀魚収獲祭2014」

縁はつながり、そして続く。 寺嶋由芙、八神純子ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2014」レポート(前編)

縁はつながり、そして続く。 寺嶋由芙、八神純子ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2014」レポート(後編)

2015年3月22日「女川町復幸祭2015」

面白い人が作る街って面白い プラニメなど出演「女川町復幸祭2015」レポート(前編)

面白い人が作る街って面白い プラニメなど出演「女川町復幸祭2015」レポート(後編)

2015年9月20日「おながわ秋刀魚収獲祭2015」

これからも女川に来て歌いたい 寺嶋由芙ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2015」レポート(前編)

これからも女川に来て歌いたい 寺嶋由芙ら出演「おながわ秋刀魚収獲祭2015」レポート(後編)

2016年3月26日「女川町復幸祭2016」

当たり前の日常を取り戻すんだ 水木一郎、クミコ、ルイフロ出演「女川町復幸祭2016」レポート(前編)

当たり前の日常を取り戻すんだ 水木一郎、クミコ、ルイフロ出演「女川町復幸祭2016」レポート(後編)

2016年9月25日「おながわ秋刀魚収獲祭2016」

宮城県に活動拠点を置くアーティストだけで成功させた祭り 「おながわ秋刀魚収獲祭2016」レポート

ハマテラスの完成など変わり続ける女川町

2017年3月18日の23時過ぎ、友人の車に乗って新宿を出発した。常磐自動車道を北上して女川町へ向かうのは3回目。福島第一原子力発電所から西6キロの地点を通過すると、路傍の電光掲示板に「3.5μSv/h」と表示された。南相馬鹿島SAにも、放射線量モニターが設置されている。

4時30分過ぎに女川町に入る。女川町の夜空は、夜明けを前にして青く、白い月が浮かんでいた。

女川駅前には、新たに「皇后陛下御歌碑」が建立されていた。皇后陛下が女川駅を詠んだ歌が刻まれている。

春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川(をながは)駅を始発車いでぬ

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女川駅から海に向けて伸びるプロムナードには、半年の間に新たな建物がいくつも建てられていた。その中でも驚いたのは、駅前の郵便局である。言い換えれば、東日本大震災以来、女川町には郵便局の仮設店舗しかなかったのだ。

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この「女川郵便局」は、2017年4月10日に営業を開始している。

そして、プロムナードの海側に遂に完成したのが「テナント型商店街 シーパルピア女川・地元市場ハマテラス」だ。蒲鉾本舗高政、「おかせい」といった、女川町の有名店もこのハマテラスに入居した。

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また、ハマテラスの向かいでは鐘が建設中だった。この「希望の鐘」は4月に完成し、6時、9時、12時、15時、18時を告げている。

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プロムナードから海を臨むと、震災遺構として残された、倒壊した旧女川交番が視界に入る。旧女川交番を解説する看板は、プロムナード側に移設されていた。

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また、新しい建物があったので書かれている文字を見ると、そこには「東北電力女川原子力発電所 地域総合事務所」と書かれていた。建物に電光掲示板があったので時計かと思うと、そこに表示されていたのは放射線量。思わず息を飲む。0.042μSv/hの空気を。

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女川駅側に戻ると、駅の裏にある墓地にお参りする人々が見えた。墓地の脇の坂を上ったところにある大原住宅は、東日本大震災の被災者向けに整備された、5棟からなる災害公営住宅だ。2017年2月26日に入居式が行われた。

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メディア猫の目 - NEWS石巻かほく: 女川・災害公営大原住宅が完成 入居式で鍵受け取り、笑顔

本当に今日「女川町復幸祭」が開催されるのだろうか……と思うほど女川町の朝は静かだ。しかし、開会式が近づくにつれて人は増え、ハマテラスも営業を開始。私は蒲鉾本舗高政の新店舗でかまぼこを早速購入した。

ハマテラスでは、私の名が彫られたレンガも発見した。これは「女川町(仮称)物産センター完成記念 せんねんレンガプロジェクト」に私が出資したために設置されたものだ。少額に過ぎないが、それでも自分が出資したハマテラスの盛況ぶりを見ることができたのは嬉しかった。

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今回の「女川町復幸祭」にはBiSが出演するので、研究員(BiSファンの総称)も続々と到着。半年前の「おながわ秋刀魚収獲祭2016」のときは来なかったのに、BiSが出るとなるとこんなに来るのか……と内心で毒づいたが、それでいいのだ。これは女川町の祭りなのだから、誰が来ようと来まいと自由なのである。初めて女川町に来た人の多さも含めて、これで正しいのだと感じた。

BiSの女川町への3年ぶりの「帰還」

9時45分、「女川町復幸祭」がスタート。開会式では、リヒャルト・シュトラウス作曲の「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れる荘厳な雰囲気のなか、なぜか須田善明町長らがセグウェイのようなものに乗って登場する場面もあった。

今年の「津波伝承 女川復幸男」は齋藤壮太さん。「津波伝承 女川復幸男」とは、「津波が来たら高台へ逃げる」という津波避難の基本を後世に伝えるために生まれた、「逃げろ!」の声と同時に走り出す行事だ。齋藤壮太さんが「きぼうのかね」を3回鳴らして、「女川町復幸祭」はスタートした。「きぼうのかね」とは、東日本大震災後に瓦礫の中から発見された鐘である。

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(写真左から須田善明町長、『津波伝承 女川復幸男』の齋藤壮太さん、3位の高玉さん)

女川潮騒太鼓轟会、女川実業団とステージは続く。ステージの責任者として忙しい蒲鉾本舗高政の高橋正樹さんは、それでも私に会うと「おかえりなさい」と言ってくれた。

民謡の庄司恵子は、昨年秋の「おながわ秋刀魚収獲祭2016」に続いての出演。今回は、ステージからではなくいきなり客席から登場していた。観客のそばで、同じ目線で彼女は歌おうとする。

樋口了一は、「故郷の熊本が被災し、これまでとは違う気持ちで女川町のステージに立っている」という主旨のMCからスタート。演者もまたそれぞれの想いとともにステージに立っていた。彼は歌詞の随所に「女川」、そして、「熊本」「大分」という地名を入れていた。

学生アカペラプロジェクトのAWS(Always With Smile)は、ゴスペラーズの北山陽一が設立した団体。星野源の「SUN」で始まり、東日本大震災の津波で亡くなった女川町の佐藤充さんによって作詞作曲された「さんま DEサンバ」で終わるという、女川町に寄り添ったステージだった。

MCGATAどBANKINGは、なんと山形弁のヒップホップグループ。持ち時間20分に対して持ち曲2曲なので、とにかく長いMC(この場合はトーク)で観客を笑わせていた。

SCK GIRLSは、昨年秋の「おながわ秋刀魚収獲祭2016」に続いての出演。気仙沼市のアイドルグループだ。福島市のアイドル・Loveit!の「Jump it!」のカヴァーも披露したが、「女川町復幸祭」を待って初披露したとのこと。気仙沼市から女川町への熱い想いがこもったステージだった。

そして、BiSが女川町のステージに立つのは、2014年3月16日の「女川町復幸祭2014」以来3年ぶりのことだった。

BiSは2014年7月8日に解散したが、2年後の2016年7月8日に再始動を発表。プー・ルイ以外は新メンバーを迎えた新たな編成となっている。この日のメンバーは、アヤ・エイトプリンス、キカ・フロント・フロンタール、ゴ・ジーラ、プー・ルイ、ペリ・ウブの5人。わざわざ編成を書いているのは、2017年5月からアヤ・エイトプリンスがGANG PARADEのカミヤサキと一時的にトレードとなり、さらにパン・ルナリーフィとももらんどが加入したためだ。

BiSの過去最高のライヴは、2012年9月23日の「おながわ秋刀魚収穫祭」だと私は考えている。初めて女川町を訪れたところ、瓦礫が撤去された後の更地が果てしなく広がっていて衝撃を受けた時代だ。そして研究員は20人程度しかいなかった。新しいBiSもまた、かつてのBiSに匹敵するライヴをしてほしい。それが私の願いだった。なぜかアカペラによるジョン・レノンの「Power to the People(人々に勇気を)」から始まった2012年9月23日のように。

BiSはリハーサルでだけ「Primal.」を歌うと、本番を始めた。「Nerve」では、SCK GIRLSがステージに参加して共演。さらに「レリビ」「太陽のじゅもん」「ロミオの心臓」「gives」「パプリカ」「BiSBiS」というセットリスト。2014年までのBiSの楽曲と、2016年からのBiSの楽曲を混ぜた構成だった。

BiS終了とともに気がついた。私はエモーショナルになりすぎていたのかもしれない、と。新しいBiSの女川町でのライヴは、ウエットさが微塵もないものだった。

ステージはトークショーとなり、「水曜どうでしょう」のディレクターである藤村忠寿と嬉野雅道が登場。それを見届けて、私は女川駅を出発する電車に乗った。

まち全体が醸し出す「ウェルカム」な空気感

「女川町復幸祭」の後も、前述した女川郵便局の営業開始や、希望の鐘の完成など、女川町からは新しいニュースが次々と届いている。

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その中でも特に重要なのは、Google Japanの企画記事「未来への学び」だった。この記事では、須田善明町長と産業振興課公民連携室室長の山田康人さんが登場し、女川町での公民連携について語っている。

未来への学び 宮城県女川町

特に須田善明町長による以下の発言は、私が10回も女川町へ行った理由と直結するものだ。付け加えるものがほぼない、というぐらいである。

組織体制だけでなく、まち全体が醸し出す「ウェルカム」な空気感も大きいのではないか。私たちは復興を進めるうえで、「震災」 「被災地」「忘れないで」といった悲観的な文脈だけでなく、「一緒になって新しいまちを創造していく」「女川から新しいスタートを生み出す」といったポジティブな考え方を重視し、発信してきた。また、それに関わる人は「お客様」や「支援相手」ではなく、「仲間」であるという意識も大事にしている。こうした未来志向なメッセージが、結果的に町内外の企業・団体、個人の興味を引き寄せ、魅力的な事業や企画が生まれる土壌をつくっているのではないだろうか。

出典:未来への学び 宮城県女川町

しかも女川町から発信されるメッセージは強い。蒲鉾本舗高政の高橋正樹さんの以下のツイートもまたその象徴であるように感じられたため、彼のツイートをもってこの記事を終えたい。ではまた、女川町で。

音楽評論家

1972年、神奈川県生まれ。「MUSIC MAGAZINE」「レコード・コレクターズ」などで、はっぴいえんど以降の日本のロックやポップス、ビーチ・ボーイズの流れをくむ欧米のロックやポップス、ワールドミュージックや民俗音楽について執筆する音楽評論家。著書に『大森靖子ライブクロニクル』(2024年)、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』(2023年)、『渡辺淳之介 アイドルをクリエイトする』(2016年)。稲葉浩志氏の著書『シアン』(2023年)では、15時間の取材による10万字インタビューを担当。

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