非エリート道を歩んだ男。ダビド・ビジャが日本で紡ぐ新たな物語。
「ビジャ、ビジャ、ビジャ! ビジャ、マラビージャ!」
ゴールを決めれば、スペイン語で「素晴らしい」を意味する「マラビージャ」にかけ、名前が連呼される。その男は、ダビド・ビジャ。先日、ヴィッセル神戸加入が発表されたプレーヤーだ。
■エリート街道を歩まず
ビジャはアストゥリアス州のトゥイージャという街で生まれた。鉱業の盛んな場所で、彼の家系もまた、鉱山労働と無縁ではなかった。ビジャのニックネームは、El Guaje(エル・グアヘ/アストゥリアス語で『子ども』の意)だ。いまもなお彼がアストゥリアスと繋がっている証である。
そんなビジャが、プロのフットボーラーになるために、平坦な道は用意されていなかった。事実、彼はエリートコースを歩んできたわけではない。
9歳の頃、ビジャはレアル・オビエド下部組織の入団試験を受けている。だが、結果は不合格。そのためラングレオという地元の街クラブでプレーすることになった。
ビジャが、ようやくエリート街道に乗ったのはユース年代だ。1999-2000シーズンに、「マレオ」と呼ばれるスポルティング・ヒホンの下部組織に入団する。そこからみるみる力をつけ、翌シーズンにはBチームに昇格。2001年にトップデビューを果たした。そして2001-02、02-03シーズンは、ヒホンの選手としてリーガエスパニョーラ2部で戦った。
ヒホンでの活躍が認められ、ビジャは03-04シーズン開幕前に1部昇格を果たしたばかりのサラゴサに移籍する。ただ、それも経営難に苦しむクラブが移籍金270万ユーロ(約3億円)を懐に入れるためという台所事情があってのことだった。
ビジャの1部デビューは21歳の時だ。日本で再会するアンドレス・イニエスタ(バルセロナ下部組織出身/18歳で1部デビュー)、フェルナンド・トーレス(アトレティコ・マドリー下部組織出身/18歳で1部デビュー)と比べれば一目瞭然だが、ビジャのデビューは遅かったのだ。
■淡々とゴールを
ヒホン、サラゴサ、バレンシア、バルセロナ、アトレティコ・マドリー、メルボルン・シティ、ニューヨーク・シティ。これはビジャが渡り歩いてきたクラブだ。
ビジャは、行く先々で、ゴールを量産してきた。脛骨の骨折で長期離脱を強いられたバルセロナでの11-12シーズンを除き、毎シーズン2桁得点を記録してきた。
類を見ない決定力でタイトルを恣(ほしいまま)にしてきたビジャだが、彼のキャリアを語る上で欠かせない2選手がいる。ひとりはアストゥリアスの英雄、「キニ」の愛称で親しまれたエンリケ・カストロ・ゴンサレスだ。そして、もうひとりは、スペインの象徴的な存在であるラウール・ゴンサレスである。2人の偉大なプレーヤーと、度々比較されながら、ビジャは淡々とゴールを積み重ねた。
困難に立ち向かう性格は昔からだ。4歳の頃、右足の大腿骨に異常が見つかった。歩けなくなる可能性さえあったという。それでもサッカーを選び、彼の父親は息子に左足でプレーするように勧め、結果としてビジャは両足で正確なシュートを打てるようになった。
精密機械のように、僅かに空いたコースにシュートを打ち抜く。嗅覚。本能。ペナルティーエリア内でビジャほど怖い選手はいない。どんな状況であれ、とにかく点を取ってしまうのが、ビジャなのだ。リーガ1部で352試合に出場して185得点を記録し、彼は歴代で12番目のゴールスコアラーとなっている。
■日本にフィットする可能性
先の2大プレーヤーとの比較で言えば、彼らはビジャのように複数クラブを渡り歩いていない。ビジャは7クラブを渡り歩き、いずれのチームでもゴールを積み重ねてきた。そこに、ビジャの選手としての価値が宿っている。
スペイン代表での成績は97試合59得点。代表での得点数は1位ビジャ、2位ラウール(44得点)、3位フェルナンド・トーレス(38得点)、4位ダビド・シルバ(35得点)、5位フェルナンド・イエロ(29得点)とトップの数字だ。
ワールドカップにはドイツ大会、南アフリカ大会、ブラジル大会と3度出場して9得点を挙げている。W杯においては、あのディエゴ・マラドーナ(8得点)以上の得点数を記録している。
ヒホンの人々は、とにかく気さくでオープンだ。港町であることに関係していると思うが、それでいて、北スペインの人たち特有の規律を大切にする心を持っている。その土地で育った選手なので、日本にフィットする可能性は高いだろう。
『子ども』という愛称を授かったフットボーラーは、青年になり、大人になり、紳士として、日本に辿り着いた。「ビジャ、ビジャ、ビジャ! ビジャ、マラビージャ...!」再び、このコールが響き渡る日を心待ちにしている。