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大坂の陣で討死した真田信繁と、その末裔と伝える仙台真田家

森岡浩姓氏研究家
史跡茶臼山(写真:イメージマート)

大河ドラマ「どうする家康」の最終回では大坂夏の陣が描かれる。この戦いで活躍するのが、真田信繁(幸村)である。

関ヶ原合戦の際には徳川秀忠軍を翻弄して決戦に間に合わせなかった真田昌幸・信繁父子。合戦がわずか1日で東軍の勝利に終わったために、戦後は所領を没収されて父子ともに高野山に流された。

昌幸は高野山で死去、残された信繁は長男幸昌(大助)と家臣を連れて高野山を脱出し、大坂城の豊臣方に馳せ参じた。

そして、信繁は徳川家康の陣に肉薄するという奮闘をみせたものの、結局豊臣方は敗れて信繁は討死、長男の幸昌は大坂城で自害した。

昌幸の長男昌幸の子孫

一方、昌幸の長男信之は、本多忠勝の娘小松姫を妻に迎えて徳川方につき、関ヶ原合戦後は上田と上野沼田で9万5000石を与えられた。大坂の陣後の元和4年(1618)には松代10万石に移っている。

関ヶ原合戦の際に兄弟を東西両軍に分けてつかせることで、結果がどうころんでも真田家は残る、という作戦だったともいう。

松代藩主となった真田家は、6代幸親のときに名家老恩田木工を登用して藩政を改革、幕末の幸貫は老中をつとめ、明治維新後は伯爵となっている。

仙台真田家

さて、大坂の陣で信繁・幸昌父子が死去したため、信繁の系統は断絶した。しかし、実は仙台藩に真田家があり、この信繁の子孫であるという話がある。

信繁の三女阿梅はのちに仙台藩重臣の片倉重長に後妻として嫁いでいるが、その際に弟で信繁の二男にあたる大八を伴ったという。そして、大八は片倉守信と改名して、以後仙台藩士になったと伝える。子孫は後に「真田」に戻し、仙台真田家として現在まで続いている。

ただし、大八には「石打で死亡した」という記録が残っており、仙台藩士の系譜を記載した『伊達世臣家譜』には、片倉守信は旗本真田政信の子とある。江戸時代に松代藩主をつとめた真田家には旗本となった分家が数家あり、政信はそのうちの一つで信繁の叔父信尹の子孫という。つまり、真田一族ではあるが、信繁の子孫ではないということである。

これに対しては、信繁の子であることを憚るために、公式記録ではあえてそうしているのだ、ともいう。

今となっては真相は藪の中だが、仙台真田家の所領のあった蔵王町教育委員会は、ホームぺージ上に守信=大八という系図を掲げ、「真田幸村公ゆかりの里」としてPRしている。

なお、ヒーローとなった信繁には、実は落ち延びたという説が多数あり、その末裔という家も存在する。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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