秀吉親族の末裔木下家と、秀頼嫡男国松の子孫という伝承
次週17日放送の大河ドラマ「どうする家康」最終回で大坂夏の陣が描かれる。
夏の陣で大坂城は落城し、豊臣秀頼は自刃。秀頼の長男国松は一旦大坂城から落ちたものの捕まり六条河原で斬首された。享年8。こうして豊臣家は滅亡した。
正妻高台院(寧々)には子どもはおらず、秀吉の末裔は残っていない。そうした中、比較的秀吉に近い家として続いたのが、木下家である。
木下家のルーツ
木下家の祖は高台院の兄、家定。もともとは杉原氏を称していた。桓武平氏と伝え尾張国春日井郡朝日村(現在の愛知県)の武士であった。妹の寧々が秀吉に仕えたことから家定も秀吉の家臣となり、木下氏を名乗るようになった。
この「木下」については、秀吉の当時の名「木下藤吉郎」からとって木下家定となったとも、逆に杉原氏が古くは「木下」を名乗っており、秀吉がこの「木下」をとって「木下藤吉郎」名乗るようになったともいい、はっきりしない。
江戸時代の木下家
家定はのちに播磨姫路で2万5000石を領したが、子利房は関ヶ原合戦で西軍に属したため所領を没収された。
利房はその後、大坂の陣に参陣、夏の陣では京都で高台院を守護したことから、徳川秀忠より父の遺領である備中国賀陽・上房両郡のうち2万5000石が与えられて足守に住み、その子利当のときに正式に足守藩として立藩した。以後幕末まで続き、明治維新後は子爵となった。
明治時代の白樺派の歌人木下利玄は、幕末の足守藩主の弟利永とその側室の間に生まれた子で、のちに当主が死去したために本家を継いだものである。
家定の三男延俊も秀吉に仕えて、播磨国三木郡で2万石を与えられた。関ヶ原合戦では東軍に属し、小野木重次の丹波福知山城を落城させ、戦後は豊後日出藩(現在の大分県)3万石を立藩。のち延次(延由)に分知して2万5000石となった。こちらも維新後は子爵となっている。
立石木下家の伝承
さて、この日出藩から分家して5000石の交代寄合(参勤交代をする旗本)となった立石木下家にはある伝承が伝わっている。
それは、同家の祖延次は実は秀頼の遺児国松の後身である、というものだ。斬首された国松は替え玉で、国松は密かに大坂城を脱出して薩摩に逃れていた。しかし、薩摩も安住の地ではなくなったため、一族である豊後日出の木下家のもとに逃れ、その庶子という形で木下家入りしたという。
延俊は亡くなる際に、延次に1万石を分知するように遺言したが、さすがに3万石から1万石を分けるというのは無理があり、5000石の交代寄合となった。そして、同家では一子相伝で国松の末裔であるということを伝えたという。
延次は庶子で四男にもかかわらず分家しているなど不自然な点も多いことが、この伝承にわずかな可能性をもたせている。