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「どうする家康」に登場した山内一豊のルーツと「山内」の読み方

森岡浩姓氏研究家
高知城の山内一豊像(筆者撮影)

5日の「どうする家康」では、いよいよ家康が会津攻めから反転して関ヶ原に向かう様子が描かれた。その場所は下野小山で、ここで評定が開かれて上杉討伐から一転して石田三成率いる西軍と戦うことになる。

その際、口火を切って家康に同心した武将の一人が山内一豊で、一豊はこの功もあって戦後土佐一国の大名に上り詰めた。

さてこの山内一豊、年配の方だと「やまのうちかずとよ」という人が多い。しかし、正しくは「やまうち」である。

山内一豊の妻

最近はあまりきかれなくなったが、以前は「内助の功」として「山内一豊の妻」の話はよく知られていた。

一豊がまだ織田信長の配下の一介の武士だった頃、馬市に出ていた立派な馬を買いたかったが金三枚という値段に手が出ず、帰宅した。これを知った妻の千代は嫁入りの際に持参した鏡の裏からへそくりを出し、夫一豊に渡して馬を購入させた。その後、馬揃えがあった際に一豊はこの馬に乗って信長の前に登場し、大いに面目をほどこして出世の糸口になったという。

この話は講談で有名で、戦前には小学校の教科書にも掲載されていたなど、講談以外でもよく話題になった。この講談のタイトルが「やまのうちかずとよのつま」で、講談中では一豊は「やまのうち」として登場している。

ここから「山内一豊」は「やまのうち」と読むというのが一般に広がったのだろう。

山内一豊のルーツ

さて、山内一豊はもともとは尾張国黒田城(現在の愛知県一宮市木曽川町)の城主だった。藤原北家秀郷流で山内首藤氏の一族と伝わるが定かではない。

この山内首藤氏は相模国鎌倉郡山内荘(現在の神奈川県鎌倉市山ノ内)をルーツとする一族で、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも山内首藤経俊が登場していた。この地名は「やまのうち」と読み、山内首藤氏は「やまのうち」であった。しかし、一豊の家は「やまうち」であった。

一豊の家は祖父の久豊以前は不明で、父盛豊は尾張岩倉城主の織田信安の家老であった。しかし、信長によって岩倉城は落城し、盛豊と長男の十郎は討死。二男の一豊は流浪の末に信長の家臣となり、豊臣秀吉に仕えた。

関ヶ原合戦の頃は遠江掛川で6万石を領しており、戦後は一躍土佐20万石余(のちに24万石)の藩主となっている。

因みに名前の「一豊」も、正しくは「かずとよ」ではなく「かつとよ」と読み、高知新聞社の発行している『高知県人名事典』でも「やまうち・かつとよ」として立項されている。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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