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「どうする家康」に登場、信濃の国衆真田昌幸のルーツ

森岡浩姓氏研究家
上田城跡(筆者撮影)

27日の大河ドラマ「どうする家康」に、佐藤浩市演じる、信濃の国衆真田昌幸が登場した。

昌幸は日本史の教科書などには登場しないが、戦国時代の好きな人にはおなじみの謀将である。ドラマではさらっと流されていたが、天正13年(1585)に鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らが率いる7000の徳川軍が上田城に籠城する2000の真田軍を攻めた第1次上田合戦では、徳川軍ははかりごとを巡らした真田軍に大敗を喫している。

この時、勝利を確信していた昌幸は鎧もつけずに家臣と碁を打っていたともいい、この場面はドラマ中でも描かれていた。

真田氏のルーツ

さて、真田氏の祖は戦国時代初期に活躍した昌幸の父幸隆である。

幸隆は海野棟綱の子で、真田に住んだことから真田氏を名乗ったとされるが、真田家初期の系図は資料によって大きく食い違い、何が正しいかは判然としない部分が多い。

さらに、室町時代中期に起きた大塔合戦の参加者に「実田」と名乗る武士が登場しており、これが「さなだ」と読むと考えられている。また、他の室町時代の資料でも「真田」を名乗る武士が見られることなどから、これらが真田氏の遠祖であるとみられ、幸隆は海野家から分かれて新たに真田氏を興したのではなく、室町時代から続く在地武士真田氏の名跡を継いだことになる。

真田一族の登場

天文10年(1541)、武田信虎は諏訪氏や村上氏とともに海野氏を攻め、海野棟綱と真田幸隆は敗れて上州に逃れた。

その7年後、父信虎を追放した信玄が村上義清を破って東信を支配した。この時に、信玄の家臣として幸隆が再登場した。

以後、幸隆は武田信玄の重臣として活躍する一方、信濃国小県郡から上野西部(群馬県)にかけての地を支配した。つまり、信濃東部から上野西部にかけての一帯は、真田一族が自ら切り取って支配した地域であり、部外者の家康にその帰属を云々されるいわれはなかった。

その後、幸隆と長男の信綱は長篠合戦で討死し、真田氏を継いだのが幸隆の三男昌幸である。

秀吉との結びつき

武田氏滅亡後、昌幸は東信の国衆をまとめ、徳川氏、北条氏、上杉氏などの間を巧みにわたっていた。そして秀吉に次男の信繁(幸村)を人質として差し出し、秀吉の傘下に入る。

ドラマ中で秀吉がスモモを食べながら家康と対峙していたが、スモモは上田地方の名産で、昌幸はいちはやく秀吉と結びついていることを暗に示している。

昌幸と信之(信幸)・信繁父子は、この後も家康とかかわりを持つことになる。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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