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「鎌倉殿の13人」に登場する、平賀朝雅のルーツと子孫

森岡浩姓氏研究家
佐久市の風景(写真:イメージマート)

8月からNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場している平賀朝雅。朝ドラ「ちむどんどん」の田良島役で話題の山中崇が演じている。朝雅はこのドラマの中核を占めている坂東の在地武士とは違い、京から下って来た雅(みやび)な武士となっている。

平賀氏のルーツ

この平賀朝雅、京から下ってきたとはいえ公家の出というわけではない。清和源氏の出で、源義光の子盛義が平賀郷(現在の長野県佐久市平賀)を領して平賀冠者と称したのが祖。その子義信は平治の乱では源義朝に従い、源頼朝が挙兵するとこれに応じるなど、生粋の源氏の武将である。

そして、義信の子である朝雅と兄の大内惟義は、鎌倉幕府成立後には御家人となった。このドラマ前半に登場して血筋を誇っていた武田信義とは又従兄弟の関係になる(祖父同士が兄弟)。因みに兄の大内惟義は伊賀国大内(現在の三重県伊賀市)に住んでいたため大内氏を名乗っていた。

義信は比企尼の娘を妻とし、その間に生まれた朝雅は北条時政と牧の方(りく)の長女を妻としていた。朝雅からみれば、時政は義父、比企尼は祖母で、北条氏、比企氏双方と深い関わりがあるが、比企氏の乱では北条氏側についていた。

乱後、京都守護として都に派遣され、平家残党の討伐に功績をあげて後鳥羽院の近臣となり、御家人としては極めて朝廷の覚えのめでたい人物であった。そのため、源実朝の御台所を京都から迎えるために朝廷や公家との交渉役を務めている。

北条氏との対立

ドラマ中では北条時政と畠山重忠の対立のように描かれているが、実際には武蔵国司だった平賀氏と、武蔵の実力者畠山氏の対立だったらしい。

いずれにせよ、このあと朝雅は牧の方と結んで畠山氏を讒訴して討伐した。さらに、北条義時・政子と対立していた牧の方は3代将軍を廃して朝雅を将軍にしようと画策した。朝雅は由緒正しい清和源氏の出で、「鎌倉殿」を継ぐ資格があると考えても不思議はない。

しかしこのクーデターは露見、在京中だった朝雅は義時の命を受けた山内通基によって討たれた(牧氏の変)。のち兄の大内惟義も承久の乱で上皇方について敗れ、平賀一族は完全に没落した。

その後の平賀氏

牧氏の変によって滅亡した平賀氏だが、そのルーツの地である信濃国佐久郡では、その後も平賀氏と名乗る一族が活躍している。

朝雅に連なる一族ではなく、別の一族が地名から新たに「平賀」と名乗ったようだが、戦国時代までこの地で平賀氏は続いた。とくに武田信玄の信濃侵攻に抵抗した平賀玄信が有名で、江戸時代の発明家平賀源内はこの玄信の末裔と称している。

平賀氏にはもう一つ別の流れもある。それが安芸の平賀氏である。

藤原氏の出の惟康が源平合戦の功で各地に所領を得、出羽国平鹿郡(現在の秋田県)に下向して地名をとって平鹿氏と称したのが祖。その子惟長が安芸国(現在の広島県)に転じて平賀氏に改称したという。室町時代には幕府の奉公衆となり、戦国時代まで安芸の国衆として活躍した。江戸時代は長州藩士となっている。

現在「平賀」という名字は、東海から関東にかけて広く分布している他、広島県にも多い。広島県の「平賀」は安芸平賀氏の末裔だろう。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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