高校野球黄金時代を振り返る!   番外編   レジェンドが語る延長18回

かつて延長18回を経験した高校球界のレジェンドが対談。それを再現する(筆者撮影)

 「延長18回」。長く高校野球を見てきたファンなら、特別な響きがあるだろう。しかしタイブレークが導入された今、この言葉は「死語」になりつつある。高校野球を語る上で、数々のドラマを演出してきた18回を実際に戦ったレジェンド二人が、かつて、MBSラジオで対談していたのだ。今回は、「黄金時代」の番外編として、15年前のオンエアを再現する。

高校野球2大レジェンド

 そのレジェンドを紹介する。まずは、尾藤公(びとう ただし)さん。箕島(和歌山=タイトル写真は2014年10月19日筆者撮影)の監督として、春3回、夏1回の優勝。1979(昭和54)年夏、星稜(石川)を延長18回の末、サヨナラで破った試合は、「高校野球史上最高の試合」と称される。公立校で唯一の春夏連覇を果たし、監督として甲子園通算35勝10敗。2011(平成23)年3月逝去。享年68。

高校球界2大レジェンドの尾藤公さん(左)と太田幸司さん。夢の共演が実現した(2005年3月筆者撮影)
高校球界2大レジェンドの尾藤公さん(左)と太田幸司さん。夢の共演が実現した(2005年3月筆者撮影)

 そして、太田幸司(おおた こうじ)さん。三沢(青森)のエースとして、1968(昭和43)年夏から3大会連続で甲子園出場。3年夏は決勝に進出し、松山商(愛媛)と延長18回、0-0で引き分け、翌日の再試合で敗れる。ドラフト1位で近鉄に入団し、プロ通算58勝。オールスター出場7回。引退後はMBS野球解説者として活躍中。68歳。番組は、センバツ前のスペシャルとして、2005(平成17)年3月7日に収録され、翌日、放送された。司会は筆者である。

人間力があった嶋田

 箕島の延長18回の死闘は、延長に入ってから2度のビハインドを、いずれも2死からの本塁打で追いつくという奇跡以外の何ものでもなかった。12回、追い詰められた箕島は嶋田宗彦選手(元阪神)が、打席に入る前にあることを監督に告げたようだ。ここから対談が始まる。

森本:尾藤さん、嶋田選手は、『監督、ホームランを狙っていいですか』と言ったようなんですが、本当ですか?

尾藤:あの時はもう2アウトになっていて、もう負けたと思っていました。インタビューで何と言おうかな、と考えていました。そしたらね、嶋田がつかつかとやってきて、そう言ったんです。ベンチがうつむいて沈んでいたのに気づいたんでしょうね。私は思わず、『よし、狙え』と言ったんですが、彼は、『まだ終わってないやないか』と言いたかったんだと思います。そしたら全員、『そうや、まだ終わってないんや』と。試合から気持ちが離れていたのを戻してくれたんですね。それほど嶋田は人間力があるというか、センスのある選手でした。

太田:ドラマを書いても、こんな見え見えのドラマって書けないですよね。

尾藤:それまで選手と監督に距離があったんですが、この試合で選手と監督の気持ちがひとつになりました。

太田:でも、こんな試合をやったら、選手が満足してあとはすぐ負けてしまうかもしれないんですが、そうならなかった尾藤監督の手腕はすごいですね。

鏡を見てスマイルを練習

森本:尾藤監督と言うと、すぐにスマイルが思い起こされるんですが。

尾藤:選手がね、『監督がニコニコしてたらリラックスできる』って言うんですよ。それなら笑ってやろうじゃないかと。鏡を見ながら練習しましたよ(笑)。

森本:それだけであんな試合ができるものでしょうか?

尾藤:あんまり押し付けるんじゃなく、常に自分たちで考えさせていました。管理野球じゃなかったんですね。東尾(修氏=元西武監督)の頃からですよ。だから追い詰められても自分たちで何とかしようとする

太田:でも、箕島と言えば、この時以外にも何度もあんな試合をしていますよ。メンバーが違うのに。

尾藤:うーん。監督が頼りないと選手がしっかりしてくるんですよ。

箕島の栄光のしるし。3度のセンバツ優勝と夏の優勝のレプリカ旗が飾られている(筆者撮影)
箕島の栄光のしるし。3度のセンバツ優勝と夏の優勝のレプリカ旗が飾られている(筆者撮影)

 先輩たちの背中を見て後輩たちが育ってくるんですね。私は、力以上のものは出なくてもいいから、せめて持っているものは出し切ってほしいとは思っていました。選手たちにいつも言っていたのは、『人に迷惑をかけるな』ということ。それなら自由にやっていい。大いに恋愛もやれって。俺はおまえたちと恋愛をしているんや。気持ちがわかりたいんやって、いつも思っていました。

太田:やっぱり、信頼関係がなければエネルギーは生まれませんよね。

泣いたのは一度きり

尾藤:太田さん、あのときの三沢高校には『ふるさと』が感じられましたね。

太田:メンバーは中学時代から知っているやつらばかりで、これが高校野球の原点だと思いますね。大阪の暑さに驚いて、甲子園に行ったらその大きさに驚きました。今、見るのと大違いで、あの時の感動は忘れられません。田舎のチームにとって、甲子園なんて夢のまた夢、でしたから。実際、2年の春まで甲子園なんて全く意識していなかった。春の県大会で2位になったんですが、当時は岩手との北奥羽大会があって。でもその年は(50回の)記念大会で1県1校。それならあとひとつ勝てば甲子園じゃないかと。それからみんなの気持ちが変わって、むちゃくちゃ練習しました。そして春に負けた八戸工に勝って甲子園が決まった。あの時は泣きました。野球をやっていて泣いたのはあとにも先にもあの時だけです。甲子園の(決勝の)再試合で負けた時も泣きませんでしたから

尾藤:私は初めて甲子園に出た時、『選手として出たかったな』と思いました。そして、ノックで空振りしないだろうかと怖くなりました。そしたらノックの仕上げに行うキャッチャーフライが上げられなかった。4回もですよ。それ以来、キャッチャーフライ恐怖症になってしまってね。県大会でもキャッチャーフライは最後にしないことにしました(笑)。

三沢のサインは全てバレていた

森本:太田さん、松山商との決勝は三沢が後攻で、サヨナラのチャンスもありましたね。

太田:もう少しうまい野球をしていたら勝てたでしょうね。でも、あとから松山の選手に聞いたら、サインも全てバレていた。よく考えたら実に単純なサインで、『これならしゃあない。あれじゃ、バレるよな』と思ったんですが、松山は名門で、『あんなチームに負けられるか』というプレッシャーがあったと思います。うちは、『おいおい、決勝だぞ。どうしよう』と、精神的に楽だった。その前から名門ばかり(大分商、明星=大阪、平安=現龍谷大平安=京都、玉島商=岡山)と当たっていて、いつも同じ気持ちで戦っていました。そのあたりが自分たちの力量と微妙にマッチしたんでしょうね。よく考えたら、なんでこんなチームが、決勝であんな試合ができたのかと思うんですよ。

尾藤:いや、それは太田さんの力投があったからですよ。

太田:僕は3回、甲子園に出たんですが、初めての試合、鎮西(熊本)との試合が原点ですね。ヒザはガクガク、唇は渇くし、キャッチャーまでやたら遠く感じて。でも終わってみたら1安打完封。次のセンバツも浪商(現大体大浪商=大阪)に負けたんですが、延長15回までやった。その大会で優勝した三重は、前年秋の神宮大会で2安打完封した相手。『僕らは強いんだ』と思いましたよ。このあたりの自信が最後の夏につながって。ですから、全ての大会に意味がありましたね。

冬の間にエネルギー蓄え

森本:尾藤さんは甲子園で4回も優勝されていますが、出るときは常に優勝を意識されていましたか?

尾藤:いえいえ、優勝なんて狙ったことないですよ。

「凛烈の意気=りんれつのいき」は箕島の校訓であり校歌の歌詞にもある。南国とは言え、谷を吹き抜ける冬の風は冷たい。それに打ち勝て、という願いが込められている(筆者撮影)
「凛烈の意気=りんれつのいき」は箕島の校訓であり校歌の歌詞にもある。南国とは言え、谷を吹き抜ける冬の風は冷たい。それに打ち勝て、という願いが込められている(筆者撮影)

 持っている力を出し切りたかっただけ。ただ春は、温暖な和歌山なんで、寒冷地のチームには負けられないな、とは思いましたが。

太田:僕らは土の上でやれる喜びを感じましたね。人間、同じサイクルでものごとをやると、必ず、緩みが出ます。僕らは雪でボールが握れない。冬の間に、『早くやりたい』というエネルギーが出てくるんです。だから、北国のチームだと同情されたくなかった。『春になったらやってやるんだ』と思っていましたから。

レジェンドから球児へ

森本:最後に、お二人から、球児たちへお願いします。

尾藤:(監督を離れて)今はいろんなチームを見る機会があるんですが、みんな甲子園に憧れているんですよ。そのために野球以外のことも頑張っている。日ごろの頑張りが、甲子園につながっていると思います。

太田:僕はやっぱり野球が好きだったんですよ。好きなことを一生懸命やる中にドラマは生まれます。若い人たちには、熱中できる何かを見つけてもらいたいですね。

森本:今日は貴重なお話を、ありがとうございました。

日常の頑張りが新しい目標につながる

 この対談が行われる直前まで、高校野球関係者がプロ野球経験者と同席することは許されなかった。プロアマ関係の改善がなされたことにより実現した次第だが、この「レジェンド」二人が高校球界に果たした役割は、はかり知れない。尾藤さんが亡くなられた今、最後の言葉をしみじみとかみしめている。「みんな甲子園に憧れ、野球以外も頑張っている」。憧れの甲子園がなくなった3年生球児たちには、日ごろの頑張りが、それぞれの新しい目標につながると信じて、この言葉を贈りたい。