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女の子が女の子を愛す物語を経て、許されぬ愛へ。世界でセンセーションを巻き起こした伝説の1作が甦る

水上賢治映画ライター
「三月のライオン」 矢崎仁司監督 筆者撮影

 都会の片隅で生きている兄と妹。兄を深く愛していた妹は、兄が記憶喪失になったとき、恋人になりすました。こうして始まった二人の関係は永遠に続くかに思えた。しかし、兄の記憶が戻ったとき……。

 こんな兄と妹の想いが交差する、氷の季節と花の季節の間、嵐の季節に当たる三月の物語である映画「三月のライオン」。1991年に矢崎仁司監督が発表した本作は、同年のベルリン国際映画祭出品を切りに、メルボルン、バンクーバー、ロンドン、ロッテルダム、ヨーテボリ、ヘルシンキなど世界各国の映画祭をめぐり、翌年にはベルギー王室主催ルイス・ブニュエル「時代」賞を受賞した。また、映画評論家のトニー・レインズに「ジャン・コクトーの『恐るべき供たち』以来の、近親相姦を描いた秀作」と称賛され、日本で公開を迎えると、10代の若者を中心に熱狂的な支持を集めた。

 伝説の1作といっていい本作が、約30年の時を経て、デジタルリマスター版として復活。現在絶賛公開中だ。

 昭和から、平成を経て、令和のいまこの作品が再び公開されることを、どう受け止めているのか? 矢崎監督に訊くインタビューを3回に渡ってお届けする。

「三月のライオン」の話に入る前に、

40年の時を経て公開された「風たちの午後」について

 「三月のライオン」の話に入る前に、まず振り返りたいのがその前作に当たる「風たちの午後」について。矢崎監督のデビュー作でもある本作は、一昨年、40年の時を経てデジタルリマスター版が公開となり反響を呼んだ。このことはどう受けとめたのか?

「僕は表現ってキャッチボールだと思っているんです。たとえば、僕が作品を通して、ボールを投げて、それに対して、観てくれた人からなにかが返ってくる。

 そういうキャッチボールがあって、ある意味、作品としての映画は完成する。

 ですから、40年という、これだけ長い時間が経過してしまったもののボールを、まだこんなに受けとめてくれる人がいたことが素直にうれしかったですね」

 「風たちの午後」が発表された1980年は、日本はもとよりまだ世界でも恋愛の形やセクシャリティがまだまだ閉鎖的だったころ。当然、LGBTQといった言葉もなかった。

池田エライザをはじめ、若い女性クリエイターたちから多くのコメントが

 当時、矢崎監督は学生で20代になったばかり。

 日本のひとりの学生が仲間とともに作り上げた「女の子が女の子を好きになる」という物語は、世界中で衝撃をもってうけとめられ、エジンバラ国際映画祭、モントリオール世界映画祭などいくつもの海外の映画祭をめぐった。

 いわば時代の先をいった1作。曲がりなりにも男女平等が浸透し、性的マイノリティの存在が認識された今という時代を見越したようなラブ・ストーリーであることに驚かされる。そういう意味で、今を生きる若者たち、中でも女性たちの心によりしっくりくるといっていいかもしれない。

 その表れか、再公開に際しては、池田エライザをはじめ、若い女性クリエイターたちから多くのコメントが寄せられた

「1985年にエジンバラ映画祭に行ったときでさえ、『日本にこうしたレズビアンはいるのか』とセンセーショナルにとらえられた。

 そういう意味では、時代がめぐって一昨年の公開は、40年前にはいい意味でも悪い意味でもあった『センセーショナル』というひとつのレッテルがとれて、純粋に観てもらえた感触がある。映画そのものを感じてもらえたというか。

 今は爆音上映とかあるけど、この映画の音は聞こえるか聞こえないくらいに音量を低くしたんです。目を瞑っていてもいいような映画が多いなかで、観ることを強いる映画を作りたかった。

 発表当時の公開では、映写室に文句を言いに来る人がけっこういて、『監督の意図である』という張り紙を出さなくてはいけなかったりしたけど、一昨年の公開ではそういうこともなかった。

 実は、デジタルリマスターにははじめ、乗り気じゃなかったんですよ。

 鈴木清順監督が『映画は滅びの美学だ』と言っていて、あの頃の僕はその言葉に共感して、映画館をまわっていく中で、フィルムが傷だらけになって、終わりを迎えられればそれはそれでその映画にとっては幸せなことだろうと思っていた。あと、過去を振り返るよりも、先をみつめて、新たな作品のことを考えたほうがいいと思っていた。

 だから、デジタルリマスターして再公開とかどうかなと。

 でも、もう一度、新たな環境で見てもらえるというのは、すごくおもしろいキャッチボールがはじまることを実感できた。新しい観客に出会うことができたし、自分自身ももう一度作品と出会うことで、振り返ることの大切さを自覚できたというか。原点を確認できたんですよね。

 なので、今回の『三月のライオン』のデジタルリマスターは、『どうぞ、どうぞ、やってください。ぜひお願いします』といった感じでしたね(笑)」

「三月のライオン」より
「三月のライオン」より

デビュー作から第2作までの12年間のブランクの理由

 先で触れたように「風たちの午後」は1980年発表で、「三月のライオン」は1992年の発表。その間に12年のブランクがある。この空白の理由は?

「さきほど少し触れましたけど、『風たちの午後』は、音量の問題があって。どこの劇場でやるとしても僕が直接行って、音量を調整しないといけなかった。

 いま、国立映画アーカイブで開催されている上映企画『1980年代日本映画――試行と新生』で、『風たちの午後』も上映されるんですけど、これも僕が先日ホールに行って、通常の音量レベル7ぐらいのところ、3.2ぐらいに抑えてもらって、スクリーンテストをして調整しました。

 当時も同じで、日本全国はもとより、香港、エジンバラ、パリ、ニューヨーク、バークレイ等々の海外の映画祭にかかるときも、僕が直接行って音量を調節していたんです。そうしたことをしていたら、5年ぐらい経っていたんです。

 それとブランクが長くなったもうひとつの理由は、『風たちの午後』は、日大芸術学部の学生で、機材にしても、現像にしても大学の設備で映画を作ることができた。極端なことをいえばフィルムさえ用意できればよかった。

 ただ、『三月のライオン』にとりかかったときはもう学生ではない。外に出て映画を作ることの壁にぶつかったわけです。変な話、大学でできた現像が、現像代だけで製作費の2/3をもってかれるような現実にぶちあたるわけです。

 それで、プロデューサーを務めてくれた西村(隆)さんが、いまでいうクラウドファンディングのようなことをして『資金を集めて自主映画を作ったらどうだ』と奉加帳を作って資金応援をお願いして回ってくれたんですけど、気づけば5年ぐらいたっていた。

 僕なりに資金が必要なのは実感していましたから、まずは正社員でどこかに務めて、失業保険中に撮影しようと考えていました。最低、1年以上勤めないと失業保険がでないから、1年働きながらシナリオを書き、失業保険中に撮影をしようと。それを計画といっていいかわからないですけど、当時の僕としてはそういう構想を練っていた。

 実際、自動販売機の飲料水のセールスマンとして働きました。自分で言うのもなんですが、なかなか優秀な社員で、全社でトップテンに入って表彰されたりしました。まぁ、それぐらいがんばったから、肝心のシナリオがまったく書きあげられなかったんですけどね(笑)。

 こんな感じでしたから、みなさんからよく『10年何やっていたんですか』と言われるんですけど、自分の中では、映画の事ばかり考えている映画漬けの日々で、映画から離れている感覚はなかったんです」

(※第二回に続く)

「三月のライオン」より
「三月のライオン」より

「三月のライオン」

監督・脚本:矢崎仁司

脚本: 宮崎裕史、小野幸生/撮影監督:石井勲/音響:鈴木昭彦/美術:溝部秀二

/記録:青木綾子

助監督:石井晋一/編集:高野隆一、小笠原義太郎/製作:西村隆

出演:趙方豪、由良宜子、奥村公延、芹明香、内藤剛志、伊藤清美

石井聰互(友情出演)、長崎俊一(友情出演)、山本政志(友情出演)、他

アップリンク渋谷、アップリンク京都ほか全国順次公開中

公式サイト:https://uplink.co.jp/lion/

場面写真はすべて(C)Film bandets

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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