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オリンピックを愛した情熱の人、石原慎太郎さん逝く

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
2020年東京五輪招致をリードした石原慎太郎・都知事=2012年5月(写真:ロイター/アフロ)

 情熱の人だった。信念の人、正直な人だった。89歳で亡くなった元東京都知事の石原慎太郎さんは、スポーツの持つ力を信じ、オリンピックを愛していた。東京五輪・パラリンピック組織委員会の橋本聖子会長ほか、スポーツ界の人々はみな、口をそろえる。

 「石原さんがいなければ、東京オリンピックはなかっただろう」

 東京五輪・パラリンピック招致の旗振り役となった石原さんを何度も取材させてもらった。選挙のプロである石原さんは2016年大会招致を「どぶ板選挙」と形容していた。2009年10月、デンマークの首都コペンハーゲンで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会における投票で、東京はリオデジャネイロに敗れた。

 その時の石原さんの落胆ぶりといったらなかった。憔悴しきった顔で、たしかこう、声を絞り出した。「こういう形で終わったのは無念です。残念です」と。

 正直なのだろう。その後、「目に見えない政治的な動きがあった」といった歯に衣着せぬ発言で物議を醸した。

 石原さんが招致委会長をしていた時、事務総長としてサポートしていたのが河野一郎さん(現・日本スポーツフェアネス推進機構代表理事)だった。石原さんを追悼し、「とても魅力的な人でした」と懐かしんだ。

 「スポーツについて、いやオリンピックについて、極めて情熱があったし、純粋であったんです」

 こんなエピソードを教えてくれた。コペンハーゲンからの帰りのチャーター便でのことだ。機中には、招致活動の応援団として都職員やスポーツ関係者ら200人ほどが乗っていた。石原さんは涙を目にためながら、機内をひとりで歩いて回ったそうだ。

 河野さんの述懐。

 「石原さんは一番前の方に座っていらっしゃったんだけど、立ち上がって、ずっとうしろの方まで回っていって、“ありがとう”“申し訳ない”と言いながら、ひとりひとりに頭を下げられていた。やっぱり、ほんとうにピュアな気持ちで取り組んでくれていたんだろうね」

 東京はその後、2020年大会に再挑戦することになった。2011年東日本大震災にも、石原都知事が再度の大会立候補を決断してくれたからだった。その際、石原さんの何度か口にした「たいまつの火を消さない」との信念は語り草となった。

 とくに2011年6月23日、日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恆和会長(当時)とアスリートたちが東京都庁を訪れ、石原都知事に2020年大会立候補を要請した時だ。

 要望書を受け取った石原さんは、「私は心中、たいまつの火は消すまいと決めています」と言った。胸を揺さぶられたのは、この後のアスリートたちに向けた言葉だった。

 「目標を持ってみんなで肩を組んでやらなければいけない。国難に近い災害に見舞われて、このあたりで日本人が精神的にも立ち上がらなければいけないと私は念じています。スポーツは人生の大きな支えになる。スポーツで鍛えて培った健全な精神が、衰えてくる肉体を支えてくれます。それを、身をもって証明するのが、選手諸君の責任であり、仕事だと思います」

 河野さんもまた、電話口でこのフレーズをそらんじた。「これが石原さんの本音だったと思う」としみじみ漏らした。

 おそらく石原さんはサッカーやヨットなどのスポーツと関わり、肉体と精神のバランスの大事さを知った。1964年東京五輪・パラリンピックに接し、五輪の価値を確認した。そして、『太陽の季節』のごとき、奔放、かつ鉄火の人生をまっすぐに生きたのだろう。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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