やわらかい笑顔が忘れられない。早大ラグビー部の監督として3度の大学日本一を果たし、日本代表監督や日本ラグビー協会副会長、名誉会長などを務めた日比野弘(ひびの・ひろし)さんが14日、死去した。86歳だった。

 訃報に接し、愛情とユーモアに満ちた言葉が次々によみがえる。筆者が早大ラグビー部の大先輩の横浜の自宅にお邪魔したのは9月の雨の日だった。10分程度のお見舞いのつもりだったのに、日比野さんはベッドに横になりながらも、ラグビーの話を1時間余も断続的に続けられた。

 ラグビーが大好きだったのだ。人が大好き、お話が大好きだった。日比野さんは唐突におっしゃった。「盲腸の時は大変だったなあ」と。40年も前、筆者は早大3年のシーズン終盤、急性盲腸炎で入院した。腹膜炎になりかけていた。日比野さんは当時、コーチをされていた。「ふふふ。おれが、松瀬を盲腸にさせたみたいなことを言われたよ」

 日比野さんはいつも、ラグビー部員に優しかった。早大だけでなく、他の大学の部員、OBにもフェアに対応した。筆者が「ホトケの日比野さんでしたよね」と言えば、日比野さんは笑ってほおを膨らませた。「ナニ、言ってんだ。まだ、おれはホトケになってないぞ」

 日比野さんは東京都出身。都立大泉高校からラグビーを始め、早大では1年からレギュラーで公式戦に出場した。卒業後は東横百貨店(現・東急百貨店)に入社し、日本代表でも快足ウイングとして活躍した。

 1970年度に早大ラグビー部監督に就任。以後、4度にわたり指揮をとり、70年度、73年度、74年度に大学日本一に導いた。日本独自のラグビー理論を体系化・実践した故・大西鉄之祐先生(1995年没・享年79)に対し、日比野さんは実証的視点でラグビーを究められた。勝負へのこだわりは強くとも、旧態依然とした根性主義を嫌い、戦略分析やラグビー理論を大切にされた。

 日比野さんが二度目の早大監督をされた1973年度の主将だった神山郁雄さん(現・早大ラグビー部OB会会長)は「素晴らしい人のひと言だな」と漏らした。5月に日比野さんの自宅を訪ねたのが最後の対面となった。

 「ワセダのラグビーのことは本当に愛していた。心配もしていた。OB会の改革もうまく進んで、“うれしいな”と涙を流していたよ」

 1973年度の新チームの練習初日。日比野監督はミーティングを開き、明大に劇的な逆転負けを喫した前年度の大学選手権決勝の敗因分析の講義から始めたという。この年度は大学日本一に輝いたあと、早大は日本選手権では社会人覇者のリコーに敗れた。大健闘だった。主将だった神山さんの述懐。

 「当時のリコーは最強だった。おれは善戦で満足していたら、そのあとの懇親会で、日比野さんが突然、泣き出したんだ。悔しくて。ソフトなムードだけど、勝負に対するこだわりは人一倍あったんじゃないの」

 日比野さんは1976年度と82~84年度、87~88年度には日本代表の監督も務められた。83年の遠征では敵地カーディフでウェールズ代表と24-29の大接戦を演じた。語り草となった。

 筆者にとって、最後の対面となった先日も、その話題が出た。「5点差だったな」と顔を少しゆがめた。

 「作戦がビシバシあたった。松尾(雄治)や平尾(誠二=2016年没・享年53)らプレーヤーがすごかった。おれは試合の録画はあまりみないけど、あの試合は何回も見たね。鑑賞に堪える試合だった」

 いつものことだが、話はラグビーの行く末にたどりつく。ラグビーのプロ化、日本代表、新リーグ、大学ラグビー…。しんどそうに目をつむりながらも、筆者が帰ろうとすると、目を開けて熱く語り出すのだった。

 指導者として第一線を退いた後も、早大教授として一般学生を指導する傍ら、日本ラグビー協会では役員としてラグビーワールドカップ日本大会の招致に多大な貢献をされた。

 加えて、これも忘れてはいけない。日比野さんは、日本ラグビーの歩み、記録をまとめた『日本ラグビー全史』(ベースボール・マガジン社)など、数多くの著書を残された。どれも記録的価値の高いものばかりだ。

 もっとも、ラグビーに一生懸命になりすぎたからか、東京・銀座にあった陶器店を継いだ4代目社長の日比野さんは1979年、百年以上の歴史があった老舗を畳んだ。つらい記憶だっただろう。

 頼まれたら、断れない人だった。他の大学のラグビー部でも、頼まれたら、喜んで、コーチ役を引き受けていた。「俺も嫌いじゃないから。人の和をひろげてね」と日比野さんは漏らした。言葉に滋味があふれる。

 「ラグビーのおかげでみんなに好かれて。仲間が出来過ぎて。ふふふ」

 ラグビーでいう「ワン・フォア・オール」(みんなのため)の生涯だったのだろう。2カ月前も、日比野さんは幸せそうに笑っていたのだった。ありがとうございました。合掌。