経験は宝だ。閉幕した東京パラリンピックのほとんどの選手がスポーツとの出会いに感謝していた。“炎のタックルマン”こと、ラグビーの石塚武生さん(2009年没、享年57)の13回忌に際し、遺されたラグビーノートを見ると、石塚さんも無数の人々との邂逅を大切にし、まっすぐ、己の限界に挑み続けたことがわかる。

 石塚さんは東京・國学院久我山高3年からラグビーを始めた。サッカー部に在籍していたところ、ラグビー部の中村誠監督に誘われた。ノートにはこう、ある。

 <久我山時代、とにかくボールをとったら、ゴールを目指し、何が何でもトライするという気持ちだけで、技術もセンスもなく、ガムシャラだけの鈍足ウイングだった>

 身長170センチ。ただ足腰が人より強く、タックルを受けてもなかなか倒れなかった。1971(昭和46)年、早大に進学し、ラグビー部に入った。春はウイングで練習し、夏合宿からフランカーに転向することになった。

 1972(昭和47)年春、ベースボール・マガジン社からラグビー専門誌、「ラグビーマガジン」が創刊された。68年の日本代表のニュージーランド「オールブラックス・ジュニア」戦勝利、71年の日本代表のイングランド戦の死闘(3-6)、早大の快進撃などでラグビー人気が盛り上がっていたからだった。

 石塚さんは2年生の1972年10月の日本体育大学戦で初めてアカクロ(レギュラージャージ)を着た。その年度は大学選手権決勝において明大に1点差で惜敗したが、3年生時には大学選手権決勝にて明大に29-6で雪辱し、早大は大学日本一の座を奪還した。

 石塚さんは1974(昭和49)年、4年生となり、主将に就いた。その時の心境を<何という名誉なことだろう>と記している。

 <早大ラグビー部の主将を自分が責任を持って果たしていけるだろうか、という不安もあったが、それ以上に大きな希望として心の底から闘志が湧いてくる気持ちだった>

 その年5月から、石塚さんは日本代表のニュージーランド遠征に参加した。海外は初めての経験だった。すべてが強烈な光線を放っていた。胸のときめきが行間にあふれる。

 <ニュージーランドの空は青かった。ほんとうに透き通るような空気の中、陽射しがキラキラ光って、木々の緑をいっそう鮮やかに見せている。それが、生まれて初めての外国の地での第一印象である。

 ニュージーランドでの約40日間の生活と11試合(5勝5敗1分け)の遠征経験は大切な思い出のひとつだ。ニュージーランドの外観的なすばらしさ、そして何よりいつまでも思い出に残るのは、民泊先の家族の親切さだ。2、3泊すると、情が移ってしまうほどの心やさしい人たちだった。もちろん言葉はあまり通じなかったが…>

 石塚主将率いる早大はこの年度、大学選手権決勝で明大に完勝して連覇を果たした。日本選手権では近鉄に敗れた。

 石塚さんは卒業後、リコーに就職した。日本代表として数多くの海外遠征を経験した。1982(昭和57)年2月には、早稲田大学創立百周年を記念したオール早稲田(大学生、社会人OBの混合選抜)の英仏遠征に主将として参加した。団長が、その年度に監督を務めた大西鉄之祐先生(1995年没、享年79)だった。早大3年だった筆者(へっぽこプロップ)も一緒に遠征に行かせてもらった。

 このイチ大学運動部の海外遠征には、大学新聞の早稲田スポーツだけでなく、共同通信、サンケイスポーツの記者も日本から同行していた。ありがたかった。

 オール早大は遠征初戦のパリでのパリ大学戦には大敗(3-50)し、2戦目の英国でのオックスフォード大にも敗戦(27-40)となったが、3戦目のエジンバラでのエジンバラ大学にやっとで勝利(20-10)を挙げた。

 海外遠征の価値は異なる文化との邂逅にある。ロンドンからバスで約1時間半。石塚さんら遠征メンバーは、緑に囲まれたアカデミックな街、オックスフォードに感銘を受けた。名門オックスフォード大ラグビークラブの創部は1869(明治2)年。

 中世ゴシック調の尖塔やカレッジ校舎が並び、その間に芝生の中庭がひろがる。街のいたるところには緑の芝生のラグビーグラウンドがあった。

 試合の夜は、映画「ハリーポッター」に出てくるような大学チャーチの荘厳な食堂での晩さん会に招かれた。両大学とも正装のブレザー姿。細長いテーブルの両側にオックスフォード大選手と向き合って座る。フォークやナイフの使い方、テーブルマナーを知らないうえ、英語も下手くその筆者はがちがちに緊張していたが、さすがに石塚さんは堂々としていたものだ。

 石塚さんはのちにロンドン郊外のリッチモンドクラブに”ラグビー留学”することになる。ノートにこう、記している。

 <ラグビー発祥国の文化に触れ、狭かった視野が一気にひろがった>

 さて最後の4戦目は3月10日のケンブリッジ大学との対戦だった。こちらも、オックスフォード大とならぶ名門中の名門。ケンブリッジ大とオックスフォード大との定期戦は1871(明治4)年に始まった。

 午後3時、キックオフだった。オール早大は、そのケンブリッジ大相手に1点差を耐え抜き、13-12で劇的な勝利を収めた。日本の単独チームとしては初の快挙だった。オール早大には、石塚さんほか、左フランカーの伊藤隆さん、スタンドオフの本城和彦、センターが南川洋一郎さん、吉野俊郎、フルバック植山信幸さんと日本代表クラスが並んでいた。

 ラスト10数分間、オール早大はケンブリッジ大学のどとうの攻めを猛タックルでしのぎ切った。そこにワセダの真髄がみえた。ディフェンスを引っ張ったのが、右フランカーの石塚さんだった。タックル、タックル、またタックル、同じチームのメンバーとして間近でみた気迫のタックルは凄まじかった。

 待ちに待ったノーサイドの笛が鳴る。力を振り絞った選手たちは抱き合い、グラウンドに倒れ込んだ。はらはらしながら見守ったライン際の早大応援団も飛び上がって、ともに喜びを分かち合った。

 石塚さんのクリヤーホルダーブックには、その時のサンケイスポーツ新聞の1ページの古びた記事が残る。『ワセダ荒ぶる』の見出しがおどる。当時29歳、石塚さんの試合直後の談話も載っている。覚悟がにじむ。

 <これでどうにか日本に帰られる。全員がよくまとまって、とくにタックルがよかったと思う>

 早稲田スポーツ新聞の石塚さんのコメントはこうだ。

 <自分たちは日本代表なのだ。テストマッチのつもりでやった。ワセダのラグビーができました>

 団長の大西さんは<みんな、よくがんばった>と語っている。

 <学生だけのチームでは、どうしても戦局を判断できないときがある。しっかりしたOBが周囲でサポートしてくれるかどうかでまったく動きが違ってくる>

 果たしてワセダのラグビーとは。

 鉄壁の防御、バックスのゆさぶり、スピーディーな展開、フォーワードの結束、いろいろあろうが、メンタルには、石塚さんがタックルで示した相手に挑みかかる気概、すなわち「ワセダ・スピリット」があった。これぞワセダ魂。

 そういえば、石塚さんのモットーは、『努力は必ず報われる』だった。どちらかといえば不器用なタックルマンはその後も自己鍛錬に励み、地道に、ひたむきに、まっすぐ、ラグビーに挑み続けるのである。