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東京五輪・パラリンピックの暗雲払拭をー安倍首相辞任表明で考える

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
2016年8月、リオ五輪の閉会式で、「マリオ」に扮して登場した安倍首相(写真:ロイター/アフロ)

 驚いた。安倍首相が突然、辞意を表明した。新型コロナウイルスの収束次第とはいえ、東京五輪・パラリンピックの招致や準備に重要な役割を果たしてきたリーダーの交代は、1年後の大会の開催をさらに厳しいものにすることになりそうだ。

 28日夕方。1時間余に及んだ首相辞任会見の最後の質問は、東京五輪に関するものだった。スポーツ紙の記者がこう、聞いた。「首相辞任が東京五輪の開催に影響があると思いますか?来年、東京五輪が開催された場合、首相として五輪を迎えることができないことへの率直な思いをお聞かせください」と。

 安倍首相は疲れ切った表情ながら、力強い口調でこう答えた。

 「世界のアスリートが万全のコンディションでプレーでき、観客にも安全で安心な大会をやっていきたいと思います。IOC(国際オリンピック委員会)や大会組織委員会、東京都とも緊密に連携をしながら、しっかりと準備を進め、開催国としての責任を果たしていかなければいけません。次のリーダーも、その考え方をもとに(開催を)目指していくことになると思います」

 首相は質問の後段部分の「率直な思い」には触れなかった。でも、これまでの行動を考えれば、心中は察して余りある。東京五輪開催を自身のレガシー(遺産)と考えてもいただろうから、残念至極に決まっている。

 東京五輪開催が決定した2013年9月7日のIOC総会。筆者もブエノスアイレスで取材した。安倍首相は招致プレゼンで福島第一原発の放射能漏れによる汚染水問題に触れ、 「The situation is under control(状況はコントロールされている)」と言い切った。事実かどうかはともかく、あれでIOC委員の懸念を払しょくした。

 また16年のリオデジャネイロ五輪では、安倍首相は閉会式に人気ゲームのキャラクター、「マリオ」に扮してサプライズ登場し、東京五輪をPRした。さらにまた、新型コロナの感染拡大がつづき、予定通りの五輪開催が危ぶまれていた今年3月24日、IOCのバッハ会長と電話会談し、大会の1年程度の延期を提案した。どうしても自身の総裁任期中に東京五輪を実施したいとの強い思いが垣間見えた。

 安倍首相が前面に出過ぎている感もあるが、兎にも角にも、大会準備の要所で先頭に立ってきた。ふだんは政治と距離を置くとしているIOCのバッハ会長は、こうした姿勢を歓迎してきた。バッハ会長は首相の辞意表明から数時間後、IOCのホームページに談話を発表した。

 <安倍首相の辞意を知って、非常に悲しんでいる。首相は常に信頼できるストロング・パートナーだった>

 東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長もまた、「運命共同体」として、安倍首相に全幅の信頼を寄せてきた。安倍首相の辞意発表後、森会長はバッハ会長らと緊急電話会談を行い、引き続き連携して準備を進めることを確認した。

 さて安倍首相の辞任が、東京五輪開催に悪影響を及ぼす理由は3つである。

 1つ目は、この東京五輪・パラリンピックの準備を推進してきた国、大会組織委員会、IOC三者の信頼関係が揺らぎうることになるからだ。安倍首相と森会長、バッハ会長の信頼関係は強固だった。その軸の安倍首相が代わる。だれが次の首相になろうとも、相対的に信頼関係は弱まることになる。

 2つ目は、これほど東京五輪・パラリンピック開催に執着してきた安倍首相が代わるということは、1年後の大会開催の先行き不透明感が増したことを意味する。もし自身の任期中の大会開催が確実であれば、持病の悪化とはいえ、もう少し、首相の座にこだわったのではないか。

 3つ目が、今後の国や大会組織委員会、東京都とIOCとの交渉において、国の政治パワーは弱体化することになるだろう。今後の「かじ取り役」は誰になるのか。安倍首相の路線を踏襲することになろうが、安倍首相ほどの影響力を期待するには無理がある。

 いずれにしろ、理由が体調悪化によるのであれば、このタイミングでの辞任は仕方なかろう。回復を祈るしかない。かたや、見方を変えれば、東京五輪・パラリンピックに関する国の政治パワーが落ちれば、相対的に東京都の関与が大きくなる。本来の五輪開催のあるべき姿に近づくのではないか。

 1年延期に伴って、国と大会組織委員会、東京都はIOCと大会を簡素化することで合意している。9月からは、新型コロナ対策と大会運営の見直しを議論していくことになっている。国としても、「安全・安心」を確保するため、コロナ対策の出入国管理や医療体制の確保などを議論していくことになろう。

 新型コロナ禍もあろうが、五輪が政治や経済に取り込まれ過ぎているから、国民の反対機運が高まっているのではないかとみている。ならば、安倍首相の辞任は五輪運動や五輪開催の意義を改めて考える好機である。

 白血病でプールから離れていた競泳の池江璃花子選手はなぜ、実戦に復帰したのだろう。池江選手は国立競技場での五輪1年前イベントで確か、こう言った。「1年後のきょう、この場所で、希望の炎が輝いていてほしいと思います」と。

 安倍首相が辞めようとも、東京五輪の価値や意義は変わらない。確かにコロナが収束し、世の中が平穏でなければ、五輪・パラリンピック開催は難しい。だが、困難を乗り越えて何とか東京大会を実施してほしいと願っているアスリートはたくさんいるだろう。

 強力な推進役を欠いた今こそ、アスリートや日本オリンピック委員会などのスポーツ界、IOC、大会組織委員会、東京都、そして新たなリーダーを擁する国が結束し、人々の開催への機運を高めていくしかあるまい。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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