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「名人に定跡なし」の端桂に二手損で居玉に戻す挑戦者 名人戦第5局は1日目午前から驚愕、また驚愕の進行

松本博文将棋ライター
35手まで進みコンピュータ将棋ソフトの判定はほぼ互角(記事中の画像作成:筆者)

 8月7日。東京・将棋会館において第78期名人戦七番勝負第5局▲豊島将之名人(30歳)-△渡辺明二冠(36歳)戦、1日目の対局がおこなわれています

 序盤からの手順を知らず、途中から盤面を見た方には、何がどうなってこんな進行になっているのか、ちょっとよくわからないかもしれません。

 相居飛車の立ち上がりで、渡辺挑戦者は飛車先の歩を2つ突いて五段目まで進めました。そして豊島名人が棒銀に出たのを見て、「四間飛車」の位置に飛車を転じます。そして玉を逆サイドに上がりました。

 29手目。豊島名人は32分を使いました。そして左端9筋に桂を跳ねます。

「名人に定跡なし」

 という言葉があります。この豊島名人の端桂は、前例や過去の常識にとらわれていては、指すことができない類の手でしょう。

 ねらいとしては、浮いている歩を取って桂を跳ねていこうというもの。それはわれら素人にもわかります。しかし自玉近く、守備駒として認識されそうな桂を、そう跳ね出していっていいものなのでしょうか。

「よっぽど強い人かよっぽど弱い人にしか指せない」

 そんな表現があります。もしこの手を初心の人が指したとすれば「うーん、ちょっとその手はどうかな」と評する指導者は多そうです。しかし指したのは他ならぬ、現代トップの豊島名人です。

 豊島名人の端桂を見て、渡辺挑戦者はどう感じたのか。そして31分を使って、元いた最初の位置に、玉を戻します。これもまた驚くよりない一手でした。

「居玉は避けよ」

 格言はそう教えます。将棋を覚え始めの人は、何度もその格言を見聞きすることになります。常識とは反する一手。しかしわざわざ手損をして居玉に戻したのは、将棋界の最高峰を争い、棋王・王将をあわせ持つ渡辺挑戦者です。

 この時点で将棋ソフトの評価値は、豊島名人の側に大きく振れました。

画像

 ソフトは角交換から攻めていけば、名人よしと判断します。

 第3局では1日目午前中から苦しくなった渡辺挑戦者。本局もまたそうなってしまうのか。

 12時すぎ。豊島名人は歩を取りながら桂を跳ね出します。これは銀当たり。渡辺挑戦者は銀を逃げながら四段目に進めます。

 居玉の渡辺玉は、斜めのラインが開きました。そこで名人、今度は端に角を出て王手をかけます。

「王手は追う手」

 初心者はそういう格言も教わります。ほとんどの場面では、むやみやたらと王手をかけても効果が薄いのは、格言が教える通りです。

「初王手目の薬」

 そんな言葉もあります。相手からすれば、初王手を目にしてちょっとびっくりすることはあっても、そうたいして効いてない。それでもとりあえず端角で相手の居玉に対して王手をかけてみたくなるのは、古今変わらぬ「初心者あるある」のようです。

 一方で将棋では常識を超えたところで、初心者が指すような手が思わぬ好手、妙手だという場合もあります。

 さて本局。名人の端角の王手は好判断なのかどうか。それは進んでみないとわかりません。渡辺挑戦者は金をまっすぐ上がって角筋をさえぎり、王手を防ぎます。ソフトの評価値を見る限りでは、形勢はほぼ五分のところにまで戻ったようです。

 35手目。豊島名人は右側の桂も三段目に跳ねていきます。そして12時30分。渡辺挑戦者の手番で昼食休憩に入りました。

 昼食は両者ともに将棋会館近くのお店からの出前となります。

 13時30分。

「再開時間となりました」

 盤側から立会人の屋敷伸之九段が声をかけ、対局が再開されました。

 豊島名人は座布団と盤の間の畳の上におかれた懐中時計を手にします。そして元に戻し、鎖をくるくると巻きます。

 渡辺挑戦者は記録係に声をかけ、棋譜用紙を受け取ります。そして少し見つめて、記録係に戻します。

 渡辺挑戦者はすぐに指す気配がありません。豊島名人は眼鏡をはずし、上を向いて、目薬を差しました。

 時刻は14時を過ぎたあと、渡辺挑戦者は36手目、7筋の歩を突っかけました。昼食休憩をはさみ、51分を使っての長考でした。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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