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FW京川舞がドイツ1部のポツダムに加入!闘病生活を乗り越え、夢のスタートラインへ

松原渓スポーツジャーナリスト
京川舞(写真:森田直樹/アフロスポーツ)

【きっかけは2012年のバルセロナ遠征】

 大志を抱いて、夢への一歩目を踏み出した。

 INAC神戸レオネッサのFW京川舞が、ドイツ・女子ブンデスリーガの1.FFCトゥルビネ・ポツダムに移籍することが発表された。

 神戸一筋10年のキャリアを積んできたストライカーは、海外に挑戦したい思いをずっと温めてきた。きっかけは、神戸が2012年に行ったスペイン遠征だった。

「元々、男子のバルセロナのサッカーが好きでした。入団した年の1月に現地(カンプノウ)で試合を見て、バルセロナの女子チームと戦ったんです。その時に、ガツン!ときました」

 ポツダムは女子チャンピオンズリーグで2度の優勝経験を持つ。国内リーグで結果を残せば、同大会に出場するチャンスがある。今年4月の女子CL準決勝では、バルセロナが本拠地カンプノウにヴォルフスブルクを迎え、9万1648人もの観客が詰めかけた。女子のクラブでは過去最多記録だ。

「あの9万人が入ったスタジアムで、プレーしてみたいです。DAZN(動画配信)で試合を見て、スタジアムの色が変わる雰囲気や、あのピッチでしか味わえない感覚を、ぜひ味わいたいと思いました」

 6月24日にオンラインで行われた移籍会見。新たな夢へのスタートラインに立った京川は、精悍な表情をしていた。

オンライン記者会見で移籍への想いを語った
オンライン記者会見で移籍への想いを語った

【先の見えない闘病生活を乗り越えて】

「ボールを追いかけていく1、2mの走り出すスピードが、何かに変身したかのように速いんだよ。あの速さは天性だと思います」

 しみじみとそう語っていたのは、常盤木高校時代の恩師である阿部由晴先生だ。2017年のことだった。

 2012年に高校を卒業した京川は、スーパールーキーとして神戸に入団した。日本がW杯で優勝した翌年で、当時の神戸には代表の中心選手たちが揃っていたが、その中でも頭角を現すのに時間はかからなかった。

 スピードを生かした抜け出しや、得意のワンタッチゴールで開幕から5ゴールで得点ランクトップに立つ。質の高いパスを受け、京川のゴールセンスは存分に引き出されようとしていた。

 しかし、開幕から1カ月が経とうとしていた5月にケガに見舞われる。前十字靭帯断裂、内側側副靭帯損傷と半月板を損傷。エースとして期待されていた日本開催のU-20W杯出場も叶わず、雌伏の時を過ごした。

 だが、ケガを機に食事の質を改善し、練習に戻ってからはトレーニングの量を増やすなどして、7カ月後に力強く復活を遂げた。

 しかし、2014年以降、神戸は世代交代の過渡期に突入。京川自身は毎年コンスタントに6、7ゴールを決めて存在感を示してきたが、タイトルは遠かった。

 2021年5月、京川はバセドウ病(甲状腺機能亢進症)と診断された。

 ケガとは違い、いつ寛解するのか、先は見えなかったという。それでも、復帰を目指して治療に専念しながら、フロントの仕事も率先して引き受け、チームを支えた。そして、今年2月にトレーニングに合流すると、紅白戦でゴールを決めて猛アピール。4月のWEリーグ第17節長野戦で、約1年4カ月ぶりに公式戦に出場する。

「彼女は勝利やゴールへのこだわりが強く、タフなゲームになればなるほど心強い存在」

 2012年のなでしこリーグデビュー戦で京川をピッチに送り出した星川敬(現Y.S.C.C.横浜)監督は、闘病生活を乗り越えた京川の復帰に太鼓判を押した。

 そして、京川はこの試合でFW田中美南の決勝ゴールをアシスト。神戸は9年ぶりのリーグ優勝を引き寄せた。

「この1年間、自分自身と向き合う時間が増えた中で、やっとノエビアスタジアム神戸のピッチに立つことができました。(W杯などの)世界の舞台に立ったことはありませんが、それぐらい嬉しい気持ちでした」

 試合後、京川は溢れる喜びを熱く語った。そして、療養中のサッカーへの想いを回想し、新たなスタートへの覚悟を示した。

「いつ治るんだろう、早くサッカーがしたい!という気持ちでもどかしかったです。こんなに時間がかかると思ってなかったので、日を追うごとに苦しくなりました。やりたい気持ちとやれない現実(のギャップ)が辛かった。病気の影響なのか、気持ちがネガティブになりがちだったので、最初の2、3カ月間は特にキツかったです。

今、出せるプレーは出し切ったので満足していますが、コンディションを整えてもっともっとやらなきゃ!と思っています。持久力も、プレーのクオリティも上げていきたいです」

【海外挑戦を支えた想いと盟友の刺激】

 今回のポツダムへの移籍は、京川側の強い熱意によって実現している。

 選手として、円熟期を迎える28歳。今のうちに海外挑戦したい、という焦りもあったようだ。

 それで自分のプレーやゴールの映像を編集して送ったところ、最初にオファーをくれたのがポツダムだった。憧れだったスペインへの思いもあったが、自分の体の状態を考えて「試合数が多すぎないこと」や、動画で見たチームの雰囲気の良さも決め手になったという。

 今は病気の経過観察のために毎月通院しているが、ドイツでも継続して受診できる環境があることも大きい。

女子ドイツカップでは決勝に進出したポツダム
女子ドイツカップでは決勝に進出したポツダム写真:代表撮影/ロイター/アフロ

 何かと不安になることもあった闘病生活中、一つの想いが背中を押した。

「復帰した後に、自分と同じ(バセドウ病の)境遇になってしまった人たちに新たな道を示したり、光を照らすという意味で、私がこの機会に海外に出ることにはすごく意味があるのではないかと思いました」

 そんな京川を最も近くで支えたのが、チームメートのMF杉田妃和だった。

「自分だけの思いでは(気持ちが)折れそうになることがあったのですが、杉田選手に背中を押されたのが大きかったです」

 神戸で7シーズンを共にした杉田は、今年2月、アメリカ女子プロサッカーリーグのポートランド・ソーンズFCに移籍した。京川は一足先に挑戦を果たした盟友と今も時々連絡を取り合い、刺激をもらっているという。

 杉田は、京川の海外挑戦にこんなエールを贈っている。

「アメリカでプレーするようになって、すごく楽しい!と感じています。舞さんはサッカーを見るのが好きで、自分はそれほどではないので、(舞さんに比べると)サッカーの全部が好き、とは言えないんじゃないかな、と思うほどです(笑)。舞さんのように見ることが好きな選手にとって、海外でサッカーをすることはプレー面でもいい影響がすごくあると思うので。それを全力で感じてきてほしいです」

 プロとして10年間を過ごし、第二の故郷となった神戸は、京川にとって「また帰ってきたい場所」。ただし、ドイツで挑戦を終えるつもりはない。

夢へのスタートラインに立った
夢へのスタートラインに立った写真:西村尚己/アフロスポーツ

「いろんな国のフットボールを見てみたい。できるならヨーロッパを渡り歩いて夢を追って、それがダメでも、ブラジル(など他の国)のフットボールを見たい。そういう経験を経て、いつか日本に帰ってきたいと思っています」

 家族、チームメート、スタッフ、ファン・サポーター。苦しい時に自分を支えてくれた人たちへの感謝を胸に、京川は新たなスタートラインに立った。

 最後に、初めての海外生活に不安はないか聞いてみた。

「ケガとか病気と向き合ってきた10年間があるので、『なんでも来い!』という感覚です」

 誰にも負けない、その自信と覚悟を持って。7月に日本を発つ予定だ。

*表記のない写真は筆者撮影

スポーツジャーナリスト

女子サッカーの最前線で取材し、国内のなでしこリーグはもちろん、なでしこジャパンが出場するワールドカップやオリンピック、海外遠征などにも精力的に足を運ぶ。自身も小学校からサッカー選手としてプレーした経験を活かして執筆活動を行い、様々な媒体に寄稿している。お仕事のご依頼やお問い合わせはkeichannnel0825@gmail.comまでお願いします。

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