【愛されたGK】

 一人のゴールキーパーが今季限りでの引退を発表した。

 池ヶ谷夏美(いけがや・なつみ)。AC長野パルセイロ・レディースを長年にわたって最後尾から支えてきた最古参選手だ。

 岡山湯郷Belleで5シーズン、2014年に長野に移籍して8シーズン目になる。

 長野では2016年の1部昇格の原動力になり、19年には2部降格も味わった。今季からはWEリーグに参入。プロ初年度のシーズンを終えようとしている。

 GKとしては小柄(163cm)だが、俊敏性を生かしたセービングと、的確なコーチングが武器。高く、伸びやかな声はスタンドの歓声に埋もれることなく、守備に緊張感を与え続けた。

 31歳と、GKとしてはまだ若い年齢で引退を決めたのはなぜなのか。

「気持ちを固めたのは、リーグ前半戦が終わった去年の12月です。自分の出場機会の少なさを見た時に、『(引退は)今なのかな』と思いました。WEリーグはプロなので、味方に要求することも、されることもハイレベルです。体はまだまだ動くので、下のカテゴリーに行けば必要としてくれるチームがあるかもしれませんが、GKとして、味方に求めるレベルを妥協する自分が想像できませんでした」

今季限りでの引退を決断した
今季限りでの引退を決断した

 サッカーで、フィールドプレーヤーは10枠あり、選手交代の5枠も含めればかなりの選手にチャンスが与えられる。一方、GKはポジションが一つしかなく、試合中の交代はほとんどない。

 プロリーグに参入した今季、池ヶ谷はここまで18試合中4試合の出場にとどまっていた。3年目で、21歳の若手GK伊藤有里彩(いとう・ゆりあ)が、チームの正守護神に定着しつつある。池ヶ谷はいつでも試合に出場できる準備をしながら、ライバルでもある伊藤をサポートしてきた。小笠原唯志監督もその姿勢を讃える。

「ベテラン選手で、引退を決めてからもサブに回ることは悔しいと思います。(伊藤)有里彩もその気持ちを理解していると思うし、池ヶ谷に恩返しする覚悟でプレーしてくれています。池ヶ谷のプロフェッショナルな姿勢やメンタルを尊重していますし、最大級の賛辞を送りたいです」

 クラブの公式サイトで引退が発表された時、SNS上に、労いのコメントや惜しむ声が溢れた。ファン・サポーター、チームメート、他チームの選手からも。心のこもったメッセージの数々は、池ヶ谷がいかに愛されてきたかを物語っていた。

 長野では、若い選手たちを叱咤激励し、雰囲気を引き締める一方で、盛り上げ役も担った。宝塚の男役のようなカッコ良さがありながら、親しみやすいキャラクターのギャップも魅力。ゴールを決めた選手がベンチの方に向かって走り、タッチライン際で待つ池ヶ谷が抱き上げて喜ぶ。長野Uスタジアムでよく見られたそのシーンは、チームの一体感を象徴していた。

【努力家の素顔】

 池ヶ谷の素顔をよく知る一人が、8年間プレーを共にしてきたキャプテンのDF五嶋京香(25)だ。池ヶ谷よりも6歳年下だが、ルームシェアをしていたこともあり、様々な悩みや葛藤を共有してきた。

「2部で優勝して、1部昇格から降格、プロリーグ参入と、いろいろな経験を共にさせてもらったことが一番の思い出です。家にいる時は試合を振り返ったり、練習の課題を話し合ったり。基本的にサッカーの話ばかりでしたね。イケは筋トレが“趣味”というほど好きで、オフも行くぐらい毎日欠かさず続けていました」

センターバックとして池ヶ谷の変化を見守ってきた五嶋(背番号3)
センターバックとして池ヶ谷の変化を見守ってきた五嶋(背番号3)

 もともと体の線が細かった池ヶ谷は、パワーをつけるため、20代前半から筋力トレーニングに人一倍力を入れてきた。

 2016年から2シーズン、チームを担当した樋口創太郎コンディショニングコーチ(現アビスパ福岡)のサポートによって、その効果はより顕著になった。今では下半身、上半身ともに一回り大きくなり、キックの飛距離も伸びた。同時にコーチングも洗練させ、GKとしての総合力も高まった。

 池ヶ谷がずっと背中を見てきた“原点”は、湯郷時代の先輩で、なでしこジャパンで長く活躍したGK福元美穂(広島)だ。

「美穂さんは、高さはないけれどコーチングを武器とするGKでした。自分と重なるところがあったし、いいものはどんどん盗みたいと思って最初は真似から入り、とにかく同じこと(指示)を言い続けました。それが今に生きています」

【「自分を変える」挑戦】

 2019年以降、池ヶ谷は大きなチャレンジをした。若手選手たちとのコミュニケーションを、根本から変えたのだ。五嶋によると、「3、4年前まではツンツンしていて、年下の選手とは話すらしないほどでした」という。

 練習の雰囲気が緩んだ時など、練習後に選手を呼び出して厳しく指摘することも。それは、池ヶ谷自身が見てきた先輩たちの背中でもあった。

「自分が高卒で湯郷に入ったときに、若手と中堅、クラブと選手を繋いでくれた先輩がいて、背中から多くのことを学びました。その時から、同じ方向を向いていないとチームは成り立たない、とずっと思ってきたんです」

 相手を「叱る」ことは、その言葉が自分にも返ってくるという意味で、「褒める」ことよりもエネルギーが要る。だからこそ、池ヶ谷は練習でも手を抜くことはなかった。

 ただ、時代が移り変わる中で、池ヶ谷自身の考えに変化が生まれた。転機は2019年。入れ替え戦に敗れて2部降格が決まった瞬間、それまでほとんど涙を見せたことがなかった池ヶ谷が、泣き崩れた。

「あの年はチームのまとまりが足りなくて、今思えば降格すべくしてしたシーズンでした。それを分かっていながら何もできなかった自分に対する悔しさと、チームを繋いできてくれた人たちのことを思ったら、涙が出て……それからメンバーが大幅に入れ替わり、翌年は主将を任されたので、みんなが同じ方向を向くために何が必要か、改めて考えました」

 監督が変わり、新卒選手が増え、チームカラーも変わりつつあった。もともとは相当な“人見知り”。だが、池ヶ谷はそんな自分を変えようと決めた。

「高いレベルでやってきた感覚を伝えていくことが仕事だと思っていたのですが、押し付けるだけでは周りがついてこないだろうな、と思いました。妥協するのではなく、同じ目線から自分の意見を伝えて、相手の意見も聞く。その中で信頼関係を築くことができれば、相手も言えなかったことを強く要求できるようになるかもしれない。年齢関係なく、まずは自分が選手として認めてもらおうと考えました。

ただ、『怖い人』というイメージを覆すのが難しくて。『急に優しくなったな』と変に思われたら時間がかかると思ったし、自分の変化を受け入れるのにも勇気が要りました。とっつきにくかったと思います。ただ、もともとサッカーの高いポテンシャルやコミュニケーション力を持つ選手が多かったので、変化を受け入れてもらえた手応えはありましたね」

 日常から相手をじっくり観察し、理解しようと努め、信頼されるために自分をさらけ出した。チームを牽引するという意識から解放され、さまざまな世代とクラブの“繋ぎ役”になった。厳しさを封印したわけではない。だが、伝え方は確実に変化した。

 今や長野のエースに成長したMF瀧澤千聖(たきざわ・ちせ)も、1年目に池ヶ谷の厳しい洗礼を受けた一人だ。だが、今ではいろいろなことを相談し合える関係になった。池ヶ谷は屈託のない笑顔を見せることも多くなり、今では若い選手からイジられることも。「本当に、丸くなりましたよ」と、五嶋は微笑む。

チームの雰囲気を和ませるムードメーカーでもあった
チームの雰囲気を和ませるムードメーカーでもあった

【指導者の道へ】

 そのように毎日を全力で過ごしてきたからこそ、引退の決断に「後悔はないです」と池ヶ谷は言う。

 来季以降は、指導者の道を歩む予定だ。培ってきた人間観察力やコミュニケーション力は、新たな道でも生かされるだろう。

「長野は人が温かくて、人脈もたくさんできましたし、大好きな土地です。可能性を秘めた若い選手が多いチームですから、今後の成長が楽しみですね」

 池ヶ谷の引退が発表された後、チームは今季初のホーム2連勝を飾った。2試合で決勝弾を決めたDF奥津礼菜は、ゴールの後、池ヶ谷の胸に迷わず飛び込んでいった。「イケさんを良い形で送り出してあげたいという気持ちが常にあります」。残る2試合も、勝利への気迫を見せる。

ゴールを決めた奥津を抱き上げる池ヶ谷
ゴールを決めた奥津を抱き上げる池ヶ谷

 5月14日の相模原戦が、池ヶ谷にとって長野Uスタジアムでの最終戦になる。そして22日の最終節は、アウェーで広島と対戦する。現役ラストマッチの相手が敬愛する福元の所属チームである広島になったことは、サッカーの神様の粋な計らいに思える。

「ここまで長くサッカーをやれたのも、サッカーを大好きになれたのも、ファン・サポーターの皆さんと一緒に歩いてこれたからだと思っています」

 波乱に満ちた13シーズンを全力で駆け抜け、クラブとサポーターへの愛を貫いた一人のプロGKがキャリアの幕を閉じる。そのラスト2戦を、しっかり見届けたい。

*写真はすべて筆者撮影