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『M-1』でウエストランドが優勝しても「毒舌ブーム」が来なかった理由

ラリー遠田作家・お笑い評論家
(写真:イメージマート)

昨年末に行われた『M-1グランプリ2022』ではウエストランドが優勝を果たした。決勝の舞台で彼らが披露した漫才は「悪口漫才」「毒舌漫才」などと呼ばれた。小柄で多弁な井口浩之が、相方の河本太の出題する「あるなしクイズ」に答えるという形で、手当たり次第にあらゆる方向に悪態をつきまくるというものだった。

彼らが2年前の2020年に初めて決勝に上がったときには、モテないキャラの井口が自分を相手にしてくれない女性たちに対して悪態をつく自虐的な漫才を演じていた。

このときには会場の空気をつかむことができず、10組中9位に終わった。審査員の松本人志は「刺さる言葉があっていいんですけど、もっと刺してほしかったな」とコメントを残した。

その経験を踏まえて、ウエストランドは一点攻撃から全方位攻撃に方針を転換した。いろいろなものへの悪口を1つのネタに集約させるために「あるなしクイズ」という優れたフォーマットを生み出し、これを軸にして『M-1』で戦える2本の漫才を仕上げた。そして、見事に王者に輝いた。

このような悪口漫才が優勝したことで「人を傷つけない笑い」が求められていた時代の空気が変わる、今後は毒舌ネタがお笑い界のトレンドになるのでは、などと言う人もいた。また、窮屈な時代だからこそ、こうやって堂々と悪態をつくようなネタが潜在的に求められていたのだ、と主張する人もいた。

しかし、それから半年ほど経った今でも、お笑い界に毒舌ブームが訪れる気配はないし、井口本人も最近放送された『しくじり先生 俺みたいになるな!!』で悪口ネタばかりを求められることに不満をこぼしていた。

個人的には、『M-1』で優勝した漫才に何らかの意味を読み取ろうとする「社会時評」的な言説にはあまり同意できなかった。ウエストランドは、たまたまその日の出場者の中で一番ウケたから優勝しただけであり、その事実自体に深い意味はないのが当然である。

ただ、どんな時代にも、人々の潜在的な不平不満のガス抜きとしての「毒舌芸」は必要とされるものであり、昨年の『M-1』ではウエストランドがたまたま今の時代の空気に合った毒舌ネタを披露したことで、それが評価されたのだろう。

しかし、このネタが「悪口漫才」「毒舌漫才」などと呼ばれることについて、ネタ作りを担当する井口自身はそれほど納得していないようだ。彼に限らず、毒舌のイメージがある芸人ほど、それを「悪口」とか「毒舌」と他人から言われることを嫌うようなところがある。

優勝したウエストランドが『ザ・ラジオショー』(ニッポン放送)に出演した際、ナイツの塙宣之が「俺たち、別に傷つけようなんて思ったこと、一回もないじゃん、芸人になってる時点で。それをみんながそう言い出すでしょ。傷つけるとか、毒舌とかさ。全然違うと思うんだよな」と言っていた。

それに答えて井口も「下から見てる偏見で言ってるだけなんですけど。傷つけたいわけないじゃないですか」と語っていた。

また、2022年12月25日放送の『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)でも、ビートたけしが「『毒舌漫才が優勝しまして、元祖毒舌漫才のたけしさん、どう思いますか』って。『知らねえよ、そんなの、馬鹿野郎』って言ったら、(相手は笑って)『さすがに毒舌ですね』って。もう腹立って、腹立って」と話していた。

たけしが語ったこの逸話は「毒舌」に対する芸人と世間の人の間の認識のズレを象徴するものだ。このズレが生じる根本的な理由は、芸人やお笑いというものが世間からナチュラルに見下されているからだ。

そもそも、井口も塙もたけしも、人を傷つけようと思って毒舌芸をやっているわけではない。あくまでも、笑いを取るための手段の1つとしてそういうやり方を選んでいるだけだ。言葉だけを切り抜くと「悪口」に見えるようなことであっても、それは一般的な意味での悪口とは似ても似つかないものだ。

ボクサーがリングの上で対戦相手を殴るのも、俳優がドラマのワンシーンで人を叩くのも、一般的な意味での「暴力」とは違うというのは明らかだろう。そんなことはあまりにも当たり前なので、試合後のインタビューで「井上尚弥さん、今回も見事な暴力でしたね」などと言うレポーターは1人もいない。

でも、芸人が悪口っぽいネタをやっているとなぜか「悪口」などと言われたりする。そこには人々の芸人に対する無自覚な差別と無理解が潜んでいる。要するに、ボクサーや俳優ほどにはプロの仕事だと思われていないのだろう。

今さら言うまでもないことだが、そもそも毒舌と呼ばれる芸でなぜ笑いが起こるのかというと、そこに何らかの共感があるからだ。みんながうすうす思っていたけど口に出せなかったようなことを、芸人がはっきり言い切るからこそ「見事に言い当ててくれた」という爽快感から笑いが生まれる。毒舌はその対象を突き放すものではなく、聞き手の心に寄り添う一種の共感芸なのだ。

近年、人を悪く言うとか、傷つけるといったことに関して、誰もが過敏になっている。それ自体は悪いことではないのだが、プロの芸人がネタの中でやっていることにまで、その基準を適用する必要はない。面白ければ笑えばいいし、面白くなければ笑わなければいい。お笑いを見るときに必要な心構えはそれだけだ。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行っている。主な著書に『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『この芸人を見よ! 1・2』(サイゾー)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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