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元テレビマンが考える「やらせ」と「演出」の違いとは?

ラリー遠田作家・お笑い評論家

テレビ業界では、番組制作の過程で「やらせ」があったということが発覚して大きな騒動になることがある。最近でも『大下容子ワイド!スクランブル』(テレビ朝日)で制作者が用意した質問を視聴者からの質問と偽って放送していたことが明らかになった。

この手の問題を考える上では、そもそも「やらせ」とは何なのかというのをはっきりさせなくてはいけない。だが、これがなかなか難しい。テレビ制作者の間でも細かい点について意見が食い違う部分がある上に、制作者と視聴者の間にも相当な認識のズレがあると思われるからだ。

私自身は過去にテレビ制作会社でAD、ディレクターとして番組制作に携わったことがある。その経験も踏まえて、やらせというものをどう考えればいいのか、自分なりの見解を示すことにしたい。

0を1にするのが「やらせ」

「やらせ」を辞書で引くと「テレビのドキュメンタリーなどで、事実らしく見せながら、実際には演技されたものであること」(『デジタル大辞泉』小学館)とある。すなわち、事実ではないことを事実であるように誤認させるような行為がやらせだと考えられているのだ。

これを現場の感覚に即してわかりやすく言い換えるなら、「0を1にするのがやらせ。1を2や3にするのが演出」ということになる。この定義自体には多くの制作者が同意するのではないかと思う。もともと存在しないものをあるように見せるのは明らかに行き過ぎた行為だが、存在するものを少し加工して面白さやわかりやすさを付け足すのはある程度までなら問題はないと考えられている。

ドキュメンタリーにも「演出」はある

私はドキュメンタリーの制作に携わっていたこともあるが、実在する人物や実際の事件を題材にするドキュメンタリーですら、取材対象をありのままに撮るだけで番組ができる、ということはまずない。そもそもどういう企画なのか、そのために何をどうやって撮るのか、それをどうやって編集するのか、というのを考えるのが制作者の仕事である。何の意図も演出もなく、ただ撮っただけの映像を並べても、面白い番組にはならない。

テレビ業界で撮影された映像のことを「素材」と呼ぶのもそのためだ。映像は番組作りのための素材である。これは料理で言うところの食材にあたる。食材としての野菜や肉を冷蔵庫から取り出して並べるだけでは料理が完成しないのは明らかだろう。焼いたり、煮たり、調味料を加えたり、といった手間を加えることでおいしい料理ができる。テレビ番組もそういうふうに作られている。

ないものをあるように見せたり、明らかな嘘をついたりするのはルール違反である。その意味で、前述の『大下容子ワイド!スクランブル』のケースは明白ななやらせである。

ただ、番組を面白くしたりわかりやすくしたりするために、巧妙にやらせを回避しながらギリギリのところを狙うのは演出の一部として許容されている。たとえば、嘘をつくのは問題だが、あえて都合の悪い情報を伏せておくのは間違いとまでは言えない。取材対象を取り上げるにあたって、どの部分をどういうふうに扱うかというのは演出の範囲だと考えられるからだ。これが「1を2や3にする」という部分である。

制作者と視聴者の感覚はかけ離れている

ただ、この点に関しては、制作者が考えていることは一般的な視聴者の認識とは大きく異なるのではないかと思う。テレビ業界で仕事をした経験のある私の目から見ると、視聴者の多くはテレビをあまりにも純粋に見すぎているのではないか、と感じることが多い。テレビで報じられていることはそのまま真実であるというふうに何の疑いもなく盲信している人が結構な割合で存在している気がする。

仮に、制作者がこっそりやっている「演出」をすべて白日のもとにさらしたら、恐らく多くの視聴者は「だまされた! あれは『やらせ』だったのか!」と感じるはずだ。制作者が「1を2にしているだけ」と考えていることでも、視聴者からは「それは0を1にしているのとほとんど同じじゃないか!」というふうに見える場合はある。そのぐらい制作者と視聴者の間には感覚的な違いがある。

バラエティでは「やらせ」は許される?

2018年に『週刊文春』で『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)のでっち上げ疑惑が報じられたことがあった。『週刊文春』2018年11月15日号では、番組側が実際には存在しないラオスの「橋祭り」を捏造したのではないかという疑問が投げかけられた。

日本テレビはこれに対して「現地では初めて行われる祭りだったと判明した」と誤りを一部認めるような文書を発表した。その後、『週刊文春』11月22日号では、続報として過去放送で紹介されたタイの「カリフラワー祭り」も実在しないのではないかという記事が掲載された。日本テレビはこれを受けて謝罪のコメントを発表した。

『イッテQ!』の騒動に関しては「バラエティなんだからそんなに目くじらを立てる必要はない」という擁護論もあった。だが、私はこれには異論を唱えたい。テレビはテレビであり、バラエティにだけ何らかの特権が与えられたり、例外が許されたりしているわけではない。「やらせは絶対に許されない」という基本的なルールは同じだ。

ただ、バラエティ番組の場合、報道番組とは見る側の意識が違う。報道番組ではそこで報じられるニュースの一語一句が間違いのないように作り込まれているのに対して、バラエティではそこまで厳密に考えられていない場合もある。

なぜなら、視聴者の間にそれを演出の一部として許容する感覚があるからだ。番組が面白ければ、そして、番組の核となる部分に嘘や間違いがなければ、特に問題はないと思う人が大半だろう。

『イッテQ!』のやらせ騒動で擁護論が目立っていた理由

『イッテQ!』の騒動において番組側を擁護する意見が目立っていたのは、週刊誌で指摘された「祭り捏造疑惑」が、視聴者の多くにとっては特に核心的な問題だとは感じられていなかったからだろう。『イッテQ!』の面白さは、宮川大輔、イモトアヤコなどのタレントが海外ロケで体を張って過激な企画に挑戦するところにある。現地で実際に祭りが存在するかどうかは特に重要だと思われていなかった。だから見逃されたのである。

たとえば、この疑惑が「イモトアヤコは本当はキリマンジャロに登っていなかった!」といった内容だったとしたら、間違いなくもっと大きい騒動になっていたはずだ。なぜなら、制作者が最もこだわっている「挑戦」の過程そのものに嘘があったとしたら、それはこの番組の核心にかかわる致命的なやらせであるということになるからだ。

ただ、今回はたまたま多くの視聴者がやらせを問題視しなかっただけであり、やらせが悪くないわけではない。外国の文化について誤った情報を発信しているわけであり、その責任は決して軽くはない。日本テレビも本件については事実を認めて謝罪している。

個別具体的に考えるしかない

ここまで述べたように、やらせと演出の違いは曖昧なものであるため、制作者は無意識のうちに境界を踏み越えてやらせと呼ばれるような行為に手を染めてしまうことがある。

それがどれほど深刻なものであるかということは、「バラエティならセーフ」「視聴者が気にしなければセーフ」といった大雑把な一般論に頼るのではなく、あくまでも個別に考えて判断していくしかないだろう。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行っている。主な著書に『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『この芸人を見よ! 1・2』(サイゾー)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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