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天才的なモノマネ芸人だった片岡鶴太郎がヨガにハマった理由

ラリー遠田作家・お笑い評論家

「ヨガ」と「離婚」で「ヨガ離婚」。誰も聞いたことのなかったこの言葉で離婚が報じられ、片岡鶴太郎が世間に衝撃を与えたのは今から3年前のことだ。

起きてすぐに3時間ヨガを行い、それから2時間かけてゆっくり朝食をとる。このルーティンを毎朝続けているうちに、38年連れ添った妻とも疎遠になってしまい、2017年3月に正式に離婚した。ちなみに、本人によると、離婚の直接の原因はヨガではなく、夫婦がお互いにやりたいことを選んだためだという。

80年代にテレビで活躍していた彼の勇姿を見ていた人の間では「鶴太郎、どうしてこうなった!?」という声が強い。若き日の鶴太郎と言えば、マッチ(近藤真彦)のモノマネなどの持ちネタがあり、当時の若手芸人の中でもトップクラスの売れっ子だった。

そんな彼が俳優、書道、水墨画、ボクシングを経て、ヨガにたどり着いたのはどういうわけなのか。明るく陽気な「鶴ちゃん」が、『スト2』のダルシムもビックリの「ヨガマスター」になってしまったのはなぜなのか。その生い立ちから振り返ってみたい。

1954年、片岡鶴太郎は東京都荒川区に生まれた。両親と弟との4人で四畳半一間のアパート暮らし。貧しい家庭に育った鶴太郎少年の唯一の楽しみは、父親に寄席に連れて行ってもらうことだった。

鶴太郎は寄席に行くたびに落語を覚えて、友達の前で披露したりしていた。彼が特に魅了されたのがモノマネ芸だった。当時、人気が全盛だった声帯模写(モノマネ)芸人の桜井長一郎は憧れの存在だった。

小学生の頃、親に内緒で『しろうと寄席』という素人参加型のお笑い番組に応募して、出演を果たした。何度か勝ち上がり、鶴太郎は番組のADにアドバイスを受けながらネタを考えていた。

ちなみにこのときのADが、のちに『オレたちひょうきん族』のプロデューサーとなるフジテレビの横澤彪だった。鶴太郎少年は気合十分でこの番組に懸けていたが、残念ながら彼が勝ち進んでいる途中で番組は終了してしまった。

高校卒業後、鶴太郎は弟子入りするために喜劇女優の清川虹子の家に押しかけた。だが、本人が不在で追い返されてしまった。あてが外れてただの無職になってしまった彼は、現実逃避のために疲れるまで近所を走り回り、家に帰ると自分で作った大量のプリンを食べまくるという毎日を送った。このエピソードにも、何もかも人一倍過剰にやってしまう「鶴太郎感」がにじみ出ている。

「このままではいけない」と一念発起した彼は、声帯模写を専門にする片岡鶴八に手紙を書いた。いきなり押しかけても弟子入りはできないということを学んでいたのだ。しばらくして鶴八から電話が来て、鶴太郎は弟子入りを認められた。根っからの寄席好きだった彼にとって、寄席に出入りできる修業生活はこの上なく楽しいものだった。

その後、知人の紹介で「隼ジュンとガンリーズ」というコントグループに加入することになった。彼らはトランポリンを使ったアクロバティックな動きのコントを売りにしていた。ここで鶴太郎は体を使って笑いを取る方法を身につけた。

グループとしての活動は順調で、日本全国を巡業で渡り歩いていた。しかし、あくまでもモノマネ芸人として独り立ちをしたかった鶴太郎は、グループを抜け出して強引に脱退してしまった。

それからはモノマネ芸人として寄席に出るようになった。テレビからも声がかかり、『お笑い大集合』という番組のモノマネコーナーに出演した。そこでプロデューサーから「久しぶりだね、元気だった?」と声をかけられた。『しろうと寄席』のADだった横澤がプロデューサーになっていたのだ。

その後、横澤が手がけた『THE MANZAI』で「漫才ブーム」が起こり、ビートたけし、島田紳助に代表される若手漫才師たちが大スターになった。その頃、鶴太郎はたけしと親しく付き合うようになり、彼に誘われて太田プロに移籍した。

『オレたちひょうきん族』で鶴太郎の運命が変わる瞬間があった。当時大人気だったマッチ(近藤真彦)のモノマネをやることをスタッフに要求されたのだ。鶴太郎がマッチの衣装を着て歌っていると、後ろで爆竹が破裂したりセットが破壊されたりした。その中で歌い続ける彼のけなげな姿が評判になった。このネタで鶴太郎の人気は急上昇。生放送に出るだけで女性客から黄色い歓声が飛ぶようになった。

その後、鶴太郎は若手芸人の出世頭となり、『鶴ちゃんのプッツン5』『笑っていいとも!』など数々の番組にレギュラー出演。彼が言い始めた"頭の神経が切れて正常な判断ができなくなる"という意味の「プッツン」という言葉は流行語になった。MCを務めることも多く、寝る間もないほどの忙しさを味わった。しかし、多忙な日々の中で鶴太郎は自分の限界を感じていた。

そんな中で、ドラマ『男女7人夏物語』への出演をきっかけにして俳優業に本格的に打ち込むようになった。役者として演じられる人物の幅を広げるためには、だらしない体を絞らなくてはいけない。そのために新たに始めたのが、以前から興味があったボクシングだった。鶴太郎は役者とボクサーとして30代を駆け抜けるように過ごした。

しかし、10年ほど経つと、またしても言いようのない虚無感に襲われた。進むべき道を見失っていた日々で、ふと花や月の美しさに目を奪われた。そして、絵を描いてみようと思いついた。描いてみるとこれも役者やボクシングと同様に奥深い世界だった。一心不乱に絵を描き続けているうちに、個展を開催しないかという話が舞い込んできた。草津にある草津ホテルでは片岡鶴太郎美術館も開設された。

そして今から5年前、鶴太郎はヨガにたどり着いた。ヨガに目覚めたきっかけは、偉大な先人たちの書物を漁っているうちに、瞑想というものの重要性に気付いたからだ。ヨガに明け暮れているうちに、インド政府公認のヨガインストラクターの資格を取得。もともと長く別居していた妻とも正式に離婚してしまった。

好奇心と探究心が人一倍強く、好きなものにはどこまでものめり込んでしまう鶴太郎。お笑いの世界で成功することができたのも、その探究心のおかげだ。

そんな彼が多くの人からあきれられたり心配されたりしてしまうのは、たまたま最初にのめり込んだものが「お笑い」だったからだろう。ある時期まで芸人だった人がそれ以外の分野に進むとどうしても叩かれがちだ。実際には彼の行動原理には最初からぶれがないのだ。

本当に「プッツン」しているのは鶴太郎ではなく、彼のように好奇心旺盛な人物をついつい色眼鏡で見てしまう私たちの方なのかもしれない。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行っている。主な著書に『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『この芸人を見よ! 1・2』(サイゾー)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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