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『プレバト!!』永世名人昇格! 梅沢富美男がバラエティ番組で重宝される理由

ラリー遠田作家・お笑い評論家

5月7日に放送された『プレバト!!』(TBS系、毎日放送制作)で、梅沢富美男が俳句の「永世名人」に昇格を果たした。初挑戦から6年4カ月をかけて前人未到の快挙を成し遂げた。昇格が決まった瞬間、梅沢は「やった!」とつぶやき、両手を挙げて喜びをあらわにした。

ここ数年、梅沢の姿をバラエティ番組でよく見かけるようになった。梅沢と言えば、「梅沢富美男劇団」の座長を務める大衆演劇の大スターである。女形の美しさには定評があり「下町の玉三郎」の異名を取る。

しかし、バラエティで見せるその素顔は、絵に描いたような「昭和の頑固オヤジ」そのものだ。発言内容も例えばこんな感じである。

「ハンバーガー屋で『40個』と注文したら、『こちらでお召し上がりですか?』と言われた。1人で食うわけねえだろ!」

「コンビニでタバコを買ったら年齢確認のためのボタンを押してほしいと言われた。俺が未成年に見えるか!?」

今どき珍しいほどまっすぐな頑固オヤジ丸出しの発言。さらに、彼は妻子持ちでありながら、現役で女遊びをしていることを公言している。芸能人の不倫や不貞に厳しい目が向けられるこの時代に、梅沢だけが別の時空を生きているかのようだ。そんな彼がテレビの世界で引っ張りだこになっている理由は何なのか。

1950年、梅沢富美男は福島県で生まれた。父は「梅沢清劇団」の座長を務めていた。戦後の娯楽がない時代ということもあり、この劇団の人気はすさまじいものだった。客があまりに大量に押し寄せすぎて、大劇場の二階席が崩落したという伝説があったほどだ。赤ん坊だった富美男は舞台を見るのが大好きで、いつも踊りやせりふを真似て遊んでいたという。母親がそれを面白がり、1歳の富美男を舞台に上げた。観客も拍手喝采でこれを迎えた。

その後、富美男は舞台から離れて義務教育期間を過ごしていた。父の劇団は兄の武生が継いでいた。その間に時代の流れも変わっていた。映画が大衆娯楽の王様として脚光を浴びるようになり、富美男の父や兄が手がけていた大衆演劇は少しずつ時代遅れになっていった。一家の収入が途絶え、中学時代の富美男は貧困に苦しめられた。

15歳のとき、富美男は上京して、兄の東京公演の見学に行った。そこで事件が起こった。1人の役者がたまたま病気で出られなくなり、急きょ富美男が代役を務めることになった。見よう見まねで何とかせりふを覚えて久しぶりに舞台に上がると、客席がドッと沸いた。これに感銘を受けた富美男は、役者の道に進む決心をした。

しかし、実はこの話には裏があった。富美男のせりふで東京の観客が盛り上がったのは、1人だけ福島弁でしゃべっていたのが面白かったからだったのだ。上京したばかりの彼はそのことに気付いていなかった。

兄の劇団であっても、特別扱いはしてもらえなかった。当時、富美男に与えられた仕事は料理番。劇団員のためにさまざまな料理を作っていた。また、寿司屋でアルバイトをしていたこともあった。このときにもまかない飯として数々のメニューを自ら考案していた。のちに料理本を出版し、芸能界有数の料理上手と呼ばれることになる彼の原点はここにあった。

25歳のとき、初めて兄から女形を演じることを命じられた。「女を演じるなんて気持ちが悪い」と断っていたが、兄は「お前は女好きなんだから、女を見ていればいいんだよ」と説得した。富美男は「それならできそうだ」と乗り気になった。

女性の仕草や立ち振る舞いはどんなものなのか、徹底的に観察して研究した。銭湯の前で湯上がりの女性を見続けていたところ、不審者だと思われて警察に連行されたこともあった。努力の甲斐あって、富美男の女形は大評判になり、劇団の大きな売りのひとつになった。

1982年、梅沢はテレビという次なるステージに挑むことになる。TBSのドラマ『淋しいのはお前だけじゃない』で俳優業に初挑戦。さらに、同年には『夢芝居』で歌手デビューも果たした。彼は当初、レコードを出すことに乗り気ではなかった。そこで、一計を案じて断るつもりで無理難題を要求した。

「小椋佳が作詞・作曲するなら歌ってもいい」

ところが、巨匠・小椋佳はまさかの快諾。仕方なく梅沢は歌手としての活動を始めることにした。俳優としても人気がうなぎ上りだった彼の歌はじわじわと評判になり、『夢芝居』は大ヒット。48万枚のセールスを記録した。そして、1983年には『NHK紅白歌合戦』にも出場を果たした。

しかし、相手が天下のNHKであっても梅沢は動じない。「リハーサルが長すぎる」と不満を漏らし、怒りをぶちまけた。また、フジテレビのドラマに出たときには、監督の演技指導のやり方が気に入らず、楽屋に3時間以上閉じこもったこともあった。それ以降、フジテレビのドラマには二度と呼ばれなくなってしまったという。大衆演劇という確固たる基盤を持っている梅沢は、テレビ業界に対して媚びることがなかった。

そんな彼に新たな転機が訪れた。『情報ライブ ミヤネ屋』(日本テレビ系、読売テレビ制作)からコメンテーターとして出演依頼があったのだ。初めて打診があったとき、梅沢は「俺は中学しか出ていないから」と依頼を断っていた。

しかし、のちに思い直した。そのきっかけは、妻の母親や叔母の言動を思い出したことだった。元芸者で生粋の江戸っ子である彼女たちは、とにかく口が悪く容赦がない。子供を殺す親のニュースを見ては「てめえが死ねよ、バカ野郎!」と悪態をつく。その様子を思い浮かべて、梅沢は「こういう人たちの代弁者になることはできるかもしれない」と考えたのだ。

「クレームが来たらいつでもクビにしてください」

そういう条件をつけて、梅沢は『ミヤネ屋』に出ることにした。乱暴な口調で歯に衣着せぬ本音トークを展開する梅沢は、現代のテレビでは異色の存在として面白がられるようになった。同世代の人間には共感され、若い世代にはその「化石」ぶりが逆に珍重されるという現象も起きていた。

さらに、梅沢には大衆演劇で培ってきたサービス精神があった。大衆演劇は、格式張った歌舞伎や能のような伝統芸能とは違う。どんな手を使ってでも目の前の観客を笑わせ、楽しませる必要がある。そんな梅沢は、バラエティ番組の現場でも視聴者を楽しませることに長けていた。場の空気を壊さず、求められたことは何でもやる。そんな梅沢の姿勢が評価され、彼はどんどんテレビの仕事を増やしていった。

子役上がりの彼には、大人の顔色をうかがう器用さに加えて、天性のかわいげと色気があった。梅沢の正体は、生意気だけど憎めない「永遠の少年」なのだ。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行っている。主な著書に『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『この芸人を見よ! 1・2』(サイゾー)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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