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日韓で共感集める「キム・ジヨン」とは一体誰なのか 作者チョ・ナムジュが独占インタビューで明かす

桑畑優香ライター・翻訳家
表紙には「顔のない顔」が描かれる(装画 榎本マリコ)筆者撮影

韓国で社会現象を巻き起こし、日本でも翻訳文芸書としては異例の大反響を呼んでいる『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳、筑摩書房)。

現在、『トガニ 幼き瞳の告発』や『新感染 ファイナル・エクスプレス』で共演したコン・ユとチョン・ユミというキャスティングで映画化も進んでいる。

誕生から学生時代、受験、就職、結婚、育児まで、淡々と進む物語の中で描かれる、女性の人生にひそむ生きづらさ。韓国で82年生まれに最も多い名前を冠した小説が綴るのは、“ごく一般的な女性の半生”だ。

では、具体的なエピソードの数々が、日本の読者たちからも共感を集めている「キム・ジヨン」とは、一体誰なのか――。作者のチョ・ナムジュさんに聞いた。

(前編はこちら→「文学で響き合う日本と韓国『82年生まれ、キム・ジヨン』作者が感じる希望と意外な変化」)

――そもそもこの本を書こうと思ったきっかけとは。

チョ・ナムジュ:書き始めたのは、2015年のことです。韓国では、ポルノサイトに盗撮やレイプの共謀などの話題が公然とやりとりされていたことが明らかになるなど、女性に関する様々な出来事が起きた年でした。本書に出てくる「ママ虫」という言葉も2015年に初めて使われるようになりました。女性たちが男性たちに声を上げ、「自分はフェミニストだ」と自覚する人が増えた時期。そういう雰囲気を受けて、この本を書こうと思ったのです。

――「ママ虫」という単語は、「育児をろくにせず遊びまわる害虫のような母親」という意味のネットスラングで、本の中では保育園に娘を迎えに行ったキム・ジヨンが、公園でサラリーマンに「ママ虫もいいご身分だよな」と言われるシーンで登場します。

チョ・ナムジュ:子どもを育てている女性たちを「ママ虫」と呼ぶと知り、私も子育てをしている女性の一人として、衝撃を受けました。誰かを軽く卑下する時に「〇〇虫」ということが多いのですが、それを「ママ」という言葉の後ろにつけるなんて想像できなかったことです。「以前は母性に対する尊重というものがあったのに、それも消えてしまったんだ」と驚きました。

「ママ虫」という言葉が誕生した背景には、2013年に実施された保育の無償化があります。それまでは低所得層のみが保育費支援の対象となっていたのですが、政策によって全面的に無償になったのです。各家庭に対して支援するのではなく、教育機関を通じて支援する方式です。子どもが保育機関に通う時の費用を国家が支援してくれるのです。それによって、これまで様々な条件の都合で託児施設に子どもを預けることができなかった人たちが、保育園を利用するケースが急増しました。

再び働けることに希望をもった人も多かったし、すでに働いている女性たちにとっても、役立つ制度でした。韓国でも最近は地域社会や大家族の中で子どもを育てるスタイルではなく、母親がワンオペで育児の責任を負うスタイルなんです。24時間ワンオペ育児を続けている母親には、休み時間も必要ですよね。ところが、保育の無償化は意味のある制度だったのですが、否定的な影響もあったんです。

「以前は母親といえば子育てが最優先だったのに、最近は子どもを保育園に預けて、その間に遊んでいるんだ」と、批判が母親に向けられるようになったのだと思います。

――チョ・ナムジュさんとキム・ジヨンは年齢も近く、夫と一人娘という家族構成も同じです。もしかすると、チョ・ナムジュさん自身がキム・ジヨンではないかと感じました。

チョ・ナムジュ:(笑)。記事やエッセイ、インタビュー、インターネットの掲示板の女性たちの書き込みをたくさんリサーチして、小説に投影しました。そういった普遍的な女性たちの物語と私自身も重なるところが多いので、結果的に私も似たような経験をたくさんしていると言えます。私もキム・ジヨンと同じように、出産・育児によるキャリアの断絶を経験しています。放送作家の仕事を辞め、小説を書きたいと思っていたのですが、なかなかうまくいかない状態でした。だからキム・ジヨンが新しい仕事を探し、さらに子どもを育てながらできる仕事に就こうと努力する過程に、私自身もすごく感情移入しました。その部分を書く時には、自分自身のことが重なって、何度も泣きました。

――例えばどんな場面ですか。

チョ・ナムジュ:エピソードの中に、子どもを産んだキム・ジヨンがアイスクリーム店でのアルバイトを考えるシーンがあります。そこで働いている主婦の店員は、子育てと両立できる仕事を探したら、ちょうど子どもが学校に行っている間にできる仕事としてアイスクリーム店に行きついたといいます。彼女がキム・ジヨンに「私も、大学は出てるんですよ」と語る場面を書きながら、涙が出ました。

――具体的なシーンの数々は、取材をしながら共感したエピソードを盛り込んだのでしょうか。

チョ・ナムジュ:私自身が共感したエピソードというよりも、多くの人たちが経験し、普遍的だと思う話、たくさんの人が「私も同じような体験をした」「姉や妹、友達が似たようなことを経験した」と感じる話を盛り込むようにしました。

具体的に誰かをモデルにしたり、インタビューしたりしたわけではありません。資料や統計を集めて書いた小説です。客観的であろうと努力しました。

今年2月にはチョ・ナムジュさんの来日イベントを開催。芥川賞作家・川上未映子さん、『82年生まれ、キム・ジヨン』訳者の斎藤真理子さん、翻訳家すんみさんと対談。定員400人を超える集客となった
今年2月にはチョ・ナムジュさんの来日イベントを開催。芥川賞作家・川上未映子さん、『82年生まれ、キム・ジヨン』訳者の斎藤真理子さん、翻訳家すんみさんと対談。定員400人を超える集客となった

――キム・ジヨンを82年生まれにした意味とは。

チョ・ナムジュ:80年代は、韓国で男女の出生統計が最もアンバランスだった時期でした。高度成長期で人々の価値観も急速に変化し、同時に政府による産児制限も行われました。

それまでは子どもがたくさんいる家庭が多かったのですが、80年代ごろから1、2人だけ産み、教育に力を入れるようになりました。同時に医学が発展し、妊娠中の性別診断も進んだのです。そのため、女の子とわかると堕胎する傾向が強い時期でした。そんな中、女の子は「女子だって何でもできる」と励まされる一方で、「男子のほうを優先する」と言われ、考えが交錯した時代でした。

また、80年代前半生まれの人たちは、青年期を迎えた1997年にIMF(通貨危機)を経験します。就職が難しい、いわばロストジェネレーションに当たります。さらに、保育の無償化が実施された時期に初めて出産を経験したのも、80年代序盤に生まれた人たちでした。

――なるほど。政治や経済の影響を最も受けた世代と言えますね。

チョ・ナムジュ:そう。この本は、80年代生まれが、どのように生きてきたかという象徴的な物語。女性は教育を受けることもできなかった時代の女性たちとは、また別の悩みを抱えた世代です。

――ソウル出身で、夫がいて、娘がいるという設定にしたのは、典型的な都市の家族像だからでしょうか。

チョ・ナムジュ:典型的な核家族であると同時に、運や状況に恵まれた女性をあえて主人公にしました。実は、キム・ジヨンは平均よりも良い状況だと思います。生まれ育った家族も結婚後の家庭にも悪い人はいないし、経済的にも困難な状況ではなく、首都ソウルに住んでいます。キム・ジヨンが直面した問題は経済や地域的な問題ではなく、女性であることに起因する問題であることが伝わればと思いました。

――執筆しながら一番悩んだところは。

チョ・ナムジュ:キム・ジヨンは特に大きな問題に直面するというわけではありません。でも、もっとドラマチックな設定にしようか迷った部分があります。例えば父親が暴力的だとか、元彼からデート暴力を受けるとか。そういう話を書いたほうがいいか迷いましたが、本書に登場する男性たちを明らかな犯罪者にするのは、やめようと思いました。

――感情的な物語ではないところが、共感の理由ではないかと思いました。

チョ・ナムジュ:女性の読者が読む時に、衝撃的なストーリーで心に傷を負わないようにしたいという思いもありました。反対に男性の読者たちも、登場人物がひどいキャラクターだったら抵抗があるだろうと考えて、そのようにしたんです。

――実は私自身、小説ととてもよく似た経験をしてきました。でも、ずっとそれがあたりまえのことだと思っていたので、『82年生まれ、キム・ジヨン』の静かなる告発は衝撃的でした。

チョ・ナムジュ:インタビューを受けるたびに、記者の方たちが自分を語りはじめることがすごく多いんです。「いま母親に子どもを預けて、この場に取材に来ました」とか。

本を読んだ後、ネットのレビュー欄に書き込む人や、読者と会うイベントの席で自分の話をする人もたくさんいます。それはこの本を書いた私にとっても、すごく意味があること。自分の経験や考えを話してくれた人たちが、この小説を完成させてくれるのだと思います。

裏表紙には風景が映る鏡の絵。「表紙の絵を選んだコンセプトは社会の中で自分の顔(主体)が危うい状態を表したかったから。鏡にも風景が映っているのは、鏡にさえ自分が映らないという喪失感」(装丁 名久井直子)
裏表紙には風景が映る鏡の絵。「表紙の絵を選んだコンセプトは社会の中で自分の顔(主体)が危うい状態を表したかったから。鏡にも風景が映っているのは、鏡にさえ自分が映らないという喪失感」(装丁 名久井直子)

*イベント写真は筆者撮影。裏表紙は筑摩書房提供

ライター・翻訳家

94年『101回目のプロポーズ』韓国版を見て似て非なる隣国に興味を持ち、韓国へ。延世大学語学堂・ソウル大学政治学科で学ぶ。「ニュースステーション」ディレクターを経てフリーに。ドラマ・映画レビューやインタビューを「現代ビジネス」「AERA」「ユリイカ」「Rolling Stone Japan」などに寄稿。共著『韓国テレビドラマコレクション』(キネマ旬報社)、訳書『韓国映画100選』(クオン)『BTSを読む』(柏書房)『BTSとARMY』(イースト・プレス)『BEYOND THE STORY:10-YEAR RECORD OF BTS』(新潮社)他。yukuwahata@gmail.com

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