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今こそ知って欲しい、藤波辰爾が「新日ジュニアの原点」と呼ばれる理由

清野茂樹実況アナウンサー
3年間、WWFジュニア王座に君臨した藤波辰爾(写真:東京スポーツ/アフロ)

新日本プロレスではジュニアヘビー級選手による、年に一度のリーグ戦「BEST OF THE SUPER Jr.」が開催中である。来月3日に日本武道館で行われる優勝決定戦には、特別立会人として藤波辰爾の来場も決定しているわけだが、世代によっては藤波を知らない人もいるかもしれない。そこで、この機会に「ジュニア」というジャンルを日本に定着させたレジェンドの偉業を以下のポイントで紹介しておきたい。

ニューヨークで王座を獲得した

日本におけるジュニアヘビー級(新日本プロレスの規定では100キロ未満)の歴史は古く、1956年に木村政彦がジュニアヘビー級王者になった記録が残っている。また、同年に開催された全日本ウェイト別選手権で優勝した駿河海や、日本人初のジュニアヘビー級王者となったヒロ・マツダが先駆者と言えるが、本当の意味でこの階級が日本で認知されるようになったのは、1978年に藤波辰爾が米国のマディソン・スクエア・ガーデンでWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得してからだ。“世界の檜舞台”と呼ばれる同所での王座獲得は日本人初であり、この快挙によって藤波はWWEの殿堂入りを果たしている。

ジュニアの地位を上げた

プロレスの世界では、海外修行から帰国することをすべて「凱旋帰国」と呼んでいるが、本来の意味は、藤波のように大きなタイトルを手に入れて帰国した場合を指す。しかも、藤波が特筆すべきは、帰国後に次々と挑戦者たちを退け、一度の陥落を除いて合計52回という驚異的な防衛記録を打ち立てている点だ。また、1980年にはNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座も獲得。WWEとNWAという二大王座を手に入れたのも日本人では藤波が初めてだ。この頃には藤波のタイトルマッチがエースであるアントニオ猪木を差し置いて、メインイベントに組まれることもあった。つまり、日本でジュニアヘビー級の地位を向上させたのである。

新日本をジュニアの最高峰にした

筋肉質の身体でスピーディーに動き回る藤波の試合は、女性や若者など新しいファンを開拓した。身体の小さなレスラー志望者にも希望を与え、獣神サンダー・ライガーや金本浩二が藤波に憧れて入門したことを考えると、その後のプロレスに与えた影響の大きさは計り知れない。藤波が確立したジュニアヘビー級という部門は初代タイガーマスクがさらに大きくし、ライガーや金本らが広げ、現在は高橋ヒロムやエル・デスペラードまで受け継がれている。これほど長くジュニアヘビー級の系譜が受け継がれている団体は他に存在しないわけで、新日本プロレスが今なお「ジュニアヘビー級の最高峰」と呼ばれるのは、間違いなく藤波の存在があったからである。

ヘビー級への転向モデルを作った

3年にわたってジュニア王座を守り抜いた藤波はヘビー級へと転向し、猪木の後を継いでIWGP王者になったことが知られている。藤波と同様、越中詩郎や髙田延彦、馳浩、最近では飯伏幸太やウィル・オスプレイなど、ジュニアヘビー級王者が階級を上げて活躍した例は多く、こうした卒業のモデルケースは藤波によって作られたと言っても過言ではない。そういえば、藤波が立会人を務めた第1回SUPER J-CUPの覇者、ワイルド・ペガサスは、新日ジュニアを卒業後にWWE世界王者にまで登り詰めた。今年のジュニアの祭典を制した者はこの後、どこまで羽ばたいていくのか?その姿を見届けるのも大いなる楽しみである。

※文中敬称略

実況アナウンサー

実況アナウンサー。1973年神戸市生まれ。プロレス、総合格闘技、大相撲などで活躍。2015年にはアナウンス史上初めて、新日本プロレス、WWE、UFCの世界3大メジャー団体の実況を制覇。また、ラジオ日本で放送中のレギュラー番組「真夜中のハーリー&レイス」では、アントニオ猪木を筆頭に600人以上にインタビューしている。「コブラツイストに愛をこめて」「1000のプロレスレコードを持つ男」「もえプロ♡」シリーズなどプロレスに関する著作も多い。2018年には早稲田大学大学院でジャーナリズム修士号を取得。

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