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偽物のスイス製高級腕時計のために殺害された悲劇 ナイフ犯罪が横行する英国

木村正人在英国際ジャーナリスト
英議会前広場で開かれたナイフ犯罪根絶のイベント(写真:ロイター/アフロ)

■「腕時計のために襲われるなんて納得できない」

[ロンドン発]「エマニュエルはとても賢く、本当に素晴らしい父親でした。私たちは皆、エマニュエルのことが大好きでした。彼が身に着けていた腕時計のために襲われるなんて、今でも納得できません。常軌を逸したいわれなき攻撃だった。犯人は反省していません。これは悲劇であり、私たちは残りの人生に向き合って生きなければなりません」

2022年5月1日夜、自分の誕生日を祝うため友人数人とロンドン中心部セント・ポール大聖堂近くのレストランで開かれたプライベート・イベントを楽しんだ後、刺されて腕時計を奪われた音楽業界のボス、エマニュエル・オドゥンラミさん(当時32歳)の婚約者ラジビア・カウルさんは涙ながらに事件を振り返った。幼い子供2人も残された。

レストランの6人掛けテーブルのチケットは1400ポンド(約26万6000円)。エマニュエルさんが本物であれば12万5000ポンド(約2371万円)もするスイスの高級時計メーカー、パテック・フィリップ製ノーチラス・ウオッチの偽物を身につけてさえいなければ、こんな悲劇は起きなかった。腕時計には目もくらむような偽ダイヤモンドがちりばめられていた。

■腕時計を盗撮し、仲間に送る

イベントの警備員カビンドゥ・ヘッティアラッキ被告(31)はスマートフォンでエマニュエルさんと腕時計を録画し、仲間のルイス・ヴァンドローズ被告(28)に送った。イベント終了後の午後11時20分ごろ、エマニュエルさんは友人と一緒にレストランを出て、歩いて近くに駐車していた自分の車に向かった。

ヴァンドローズ被告ら3人は車の中でエマニュエルさんを待ち伏せし、襲いかかった。3人のうち1人は折りたたみ式ナイフを手にしていた。危険を察知したエマニュエルさんは走り出したが、追いつかれ、殴られ、ナイフで胸を刺された。3人はエマニュエルさんに暴行をふるい続け、腕時計を奪って「盗ったぞ。盗った」と叫んだ。

3人が走り去ったあと、エマニュエルさんは立ち上がり、自分の車の方へ歩いて戻ったが、ボンネットの上に倒れ、地面に崩れ落ちた。エマニュエルさんは病院に運ばれたが、翌日午前零時8分に死亡が確認された。ヘッティアラッキ被告と警備員の同僚は襲撃の一部始終を見ていたが、エマニュエルさんを助けようともしなかった。

■見つからない偽物のノーチラス・ウオッチ

シティ・オブ・ロンドン警察はヘッティアラッキ被告やヴァンドローズ被告ら事件に関わった4人を逮捕した。このほど4人に謀殺罪や故殺罪、強盗罪で最低刑期31年の終身刑から刑期13年の判決が言い渡された。虚偽証言で捜査を妨害した警備員の同僚にも18カ月の禁固刑が言い渡された。偽物のノーチラス・ウオッチはいまだ見つかっていない。

シティ・オブ・ロンドン警察の重大犯罪チーム、エデル・マイケルズ主任警部は「私たちの思いは誕生日を祝って外出したエマニュエルの死に打ちのめされた家族と友人たちにあります。この無慈悲で組織的な殺人の犯人には当然ながら長期の禁固刑が言い渡されました。彼らを裁くために懸命に働いてくれたすべての人に感謝したい」と語った。

エマニュエルさんの母親クリスティアナさんは「美しい息子を失いました。エマニュエルは私の光であり、希望であり、未来でした。私の痛みと喜びを分かち合ってくれました。私に多くのインスピレーションを与えてくれました。彼は決して人を差別しなかった。私は1兆分の1の存在である本当の宝石を失った。彼はこの醜い世界にとって特別すぎた」と語る。

■ナイフ犯罪の根絶を

「息子は天使のようでした。彼は子供たちのために多くのことを計画していたし、死ぬには若すぎた。エマニュエルが亡くなってから、起こったことがまだ私たち家族を罰していると感じています。私は痛みを抱えていますし、生きる目的も失っています。犯人たちは私の人生から喜びを奪いました。彼が死んだなんて信じられない」(クリスティアナさん)

イングランドとウェールズで起きているナイフ犯罪の件数(単位:千件、英下院図書館報告書より抜粋)
イングランドとウェールズで起きているナイフ犯罪の件数(単位:千件、英下院図書館報告書より抜粋)

銃規制が厳格な英国ではその代わりナイフ犯罪が多発している。イングランドとウェールズでは2023年3月末までの1年間でナイフ犯罪は約5万500件発生。21年度より4.7%多かったが、19年度より7%少なかった。ナイフや攻撃的武器の所持を理由とする警告や有罪判決は1万9000件強あり、少年(10~17歳)が加害者となったケースは約18%を占めた。

NHS(国家医療サービス)のデータによると、22年度にイングランドの病院で記録された鋭利なものを使った暴行の記録は3775件。21年度と比べて9.5%減少したものの、14年度に比べると3.6%も増加していた。婚約者のラジビアさんは「私たち全員からエマニュエルを奪い、本当に喜びを感じることを奪った」とナイフ犯罪の根絶を訴えている。

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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