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「中国の自信過剰による計算違いは現実的リスク」と米中衝突を警告した英MI6長官

木村正人在英国際ジャーナリスト
ロンドンのテムズ川沿いにあるMI6(写真:ロイター/アフロ)

[ロンドン発]人気スパイ映画「007」でお馴染みの英対外情報機関、秘密情報局(MI6)のリチャード・ムーア長官は11月30日、有力シンクタンク、国際戦略研究所(IISS)で講演し「北京は欧米の弱点に関する自国のプロパガンダを信じ込み、ワシントンの決意を過小評価している。 自信過剰による中国の誤算リスクは現実のものになっている」と警告した。

ムーア長官は「私がMI6で働くようになった1980年代、『C(MI6長官のコードネーム)』の正体はまだ秘密だった」と振り返る。「スピーチは民主主義下で自らの責任を果たすための重要な手段」であり「秘密を守るためにはよりオープンにならなければならない」という現代の自由民主主義国家のスパイが直面するパラドックスに触れた。

「われわれは気候変動からパンデミックまで国境を越えた課題に直面している。今後10年で前世紀より多くの技術進歩を経験し、産業革命に匹敵する破壊的な影響を受ける可能性がある。量子やバイオのテクノロジーは産業を変え、人工知能(AI)が日常生活に組み込まれ、犯罪者、テロリスト、敵対国家によるサイバー攻撃は指数関数的に激増している」

西側スパイにとっての「ビッグ4」とは

西側のスパイ(情報機関)コミュニティーで非公式に「ビッグ4」と呼ばれているのが中国、ロシア、イラン、国際テロの脅威だ。イギリスはキャメロン政権下の2015年に中国の習近平国家主席を国賓として招くなど「英中黄金時代」を謳歌した。しかし香港国家安全維持法の強行により「一国二制度」を一方的に反故にされ、英中関係は急激に悪化した。

今年7月の「競争時代のグローバル・ブリテン 安全保障・国防・開発・外交政策の統合レビュー」は中国を「体制が異なる競争相手」と位置付けた上で「軍事的近代化」を進め「国際社会での主張を強めている」と分析した。インド太平洋に外交・安全保障上の努力を傾ける一方で、中国に関与して貿易や投資に門戸を開放する必要性を指摘していた。

ムーア長官は「中国の台頭によって影響を受ける世界に適応することがMI6の最優先課題」と述べた上で「中国のパワーとそれを主張する意思が強まるにつれ、地殻変動が起きている。中国は権威主義国家であり、われわれとは異なる価値観を持っている。これは中国から発せられる脅威にも反映されている」と「体制の違い」を改めて強調した。

中国のスパイ組織について「高い能力を持ち、イギリスや同盟国に対して大規模な情報活動を継続的に行っている。政府や産業界で働く人や特に中国が関心を持つ研究に携わる人が含まれる。中国人亡命者を監視し、不当な影響力を行使しようとしている。中国スパイは自分たちの活動を促進するためSNSのプラットフォームを利用している」と分析する。

「韜光養晦の時代はとっくに終わった」

「彼らはわれわれの社会のオープンな性質を利用しようとしている。中国政府が世界中の世論と政治的意思決定を歪めようとしていることを懸念する。北京の軍事力拡大と台湾問題を必要に応じて武力で解決しようとする中国共産党の意図は世界の安定と平和に対する深刻な挑戦でもある」とムーア長官は続けた。

かつてトウ小平が説いた「韜光養晦(とうこうようかい、力や才能を隠し、時期が訪れるのを待つこと)」の時代は「とっくに終わっている」と断言し、「中国共産党は異論を許さない。指導部は国家安全保障上の理由から大胆で断固とした行動をとることをますます好むようになっている」と分析した。

香港の民主派や新疆ウイグル自治区の少数民族に対する弾圧について「中国共産党は国家安全保障の名の下に、香港の『一国二制度』の枠組みを破壊し、個人の権利や自由を奪った。監視国家は新疆ウイグル自治区のウイグル族を標的とし、推定100万人のイスラム教徒を恣意的に拘束するなど、広範な人権侵害を行っている」と断定した。

「中国がこうした支配と監視のためのテクノロジーを他国政府に輸出するケースが増えており、権威主義的な支配網が地球上に広がっている。独立した司法機関や自由な報道機関がないことによって生じる債務の罠、データ流出、政治的強制に対する脆弱性について他の国々が確かな目を持つことを望んでいる」と訴えた。

ロシアのスパイ活動は冷戦期のピーク並み

第二の脅威はロシアだ。KGB(旧ソ連国家保安委員会)出身のウラジーミル・プーチン大統領の下、ロシアのスパイ活動は冷戦期のピーク並みに活発化している。

・2006年、元ロシア連邦保安庁(FSB)幹部アレクサンダー・リトビネンコ氏がロンドンのホテルで紅茶に放射性物質ポロニウム210を入れられ、毒殺される

・16年、モンテネグロで親ロシア派の野党政治家や秘密工作員とされるロシア人らが首相暗殺や議会襲撃などクーデターを計画していたとされる

・18年、英イングランド南西部ソールズベリーでロシアの元二重スパイと娘が兵器級の神経剤ノビチョクで暗殺されそうになる。巻き添えで捜査員ら2人が重体になり、3児の母親が死亡。実行犯2人は ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU) の特殊部隊29155部隊に所属

・昨年3~6月、米テキサス州のソフトウェア開発会社ソーラーウインズのネットワーク管理ソフトウェアを導入する企業や政府機関がロシア対外情報庁(SVR)から指示されたとみられるハッカーからのサイバー攻撃を受ける

・今年4月、チェコは作業員2人が死亡した14年の爆薬庫爆発に関連してスパイと特定したロシア人スタッフらを追放。ソールズベリーの実行犯2人が関与

ムーア長官は「多くの活動は秘密裏に、あるいは否認できるように設計されている。しかしプーチン大統領周辺のエリートの個人的利益に結びつくようなより大胆な活動も見られるようになり、否認するのは難しくなっている。ロシア民間軍事会社のアフリカやシリア展開や野党勢力指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏の毒殺未遂もその証拠だ」と分析する。

「MI6はロシアを理解することに1世紀にわたって関わってきた。ロシアが不安定化工作を止めれば、共通の脅威に焦点を当て対話を通じてロシアの正当な利益に対処できる。われわれはロシアに対して敵対的になり、ロシアを弱体化させたり包囲したりすることを望んでいるわけではないことをロシアに再確認させることができるかもしれない」と言う。

レバノンを弱体化させたイラン

第三の脅威、イランについては核交渉が再開されたものの「イラン革命防衛隊がレバノンで養成してきたヒズボラはその後、国家内国家に成長し、レバノン弱体化と政治的混乱に直接貢献した。イランはこのモデルをイラクでも繰り返し、シリア、イエメン、湾岸諸国でも同じような政策をとろうとしている」という。

「イランは相当なサイバー能力を構築しており、地域のライバルや欧米諸国に対して利用している。政権に反対する者に対しては暗殺プログラムを維持している。ロシアが抱える課題の多くを共有している。両国がシリアで共通の目的を持っていることは決して偶然ではない」と分析した。

第四の脅威、国際テロについては「一匹狼の攻撃を阻止することは困難」と警戒しつつ「アフガニスタンでイスラム原理主義武装勢力タリバンが再び勝利したことで、世界中の過激派の士気が高まり、ロシア、中国、イランなどの国々を勇気づける効果があったことは間違いない」と述べた。

ムーア長官は「われわれの情報活動のターゲットはオンライン上で生活している。スパイはサイバー空間でも敵から見えないように活動しなければならない。『メイド・イン・チャイナ(中国製)』の監視技術が世界中で使われている環境下で情報活動を行う必要がある」と指摘する。

「われわれの敵はAI、量子コンピューティング、人工生命体を新たに構成しようとする生物工学の習得に資金と意欲を注いでいる。情報機関は技術的に可能なことの先陣を切る必要がある。007に出てくる架空のキャラクター『Q(研究開発の責任者)』とは異なり、すべてを自前で行うことはできない。世界のハイテク産業の力を借りるべきだ」

ムーア長官は国家安全保障戦略投資基金を活用する考えを示した。先の国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)では米中は共同宣言を出して協調する姿勢を示したものの、「体制が異なる競争相手」中国は極超音速兵器が音速の5倍以上の速さで南シナ海上空を滑空中にミサイルを発射し、西側諸国に「スプートニクショック」並みの衝撃が走った。

西側諸国では米英を軸にしたアングロサクソン連合と独仏を軸にした欧州連合(EU)の間に微妙な溝が走る。ドイツの外相には中国やロシアの権威主義を厳しく批判してきた緑の党のアンナレーナ・ベーアボック共同党首が就任する見通しとなり、ドイツやEUの中露外交がアングロサクソン連合と歩調を完全に合わせるのか注目される。

日本にとってもAIや量子コンピューティング、生物工学の開発で米英との協力はもはや不可避の選択と言えるだろう。

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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