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「合意なき離脱」で英国の医療はメルトダウンする 映画『第三の男』が物語る医薬品不足の恐怖

木村正人在英国際ジャーナリスト
解散動議不発も、単独で”選挙運動”を展開するジョンソン英首相(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

医薬品と看護師の不足は深刻

[ロンドン発]長引く英国の欧州連合(EU)離脱交渉で難病治療薬が不足し始め、「合意なき離脱」による致死率上昇に備え英政府が死体を収めるボディバッグを密かに備蓄している問題で、国民医療サービス(NHS)のスタッフに話をうかがいました。

「クライシスというよりメルトダウン状態です。もともとEU離脱で人の自由移動とサプライチェーンが分断されれば、医薬品・医療機器と看護師の供給が不足すると言われていました。EUからの看護師は英語が話せる人がそれほど多くなく、英語圏のインドやフィリピンの看護師は問題なく英語を話せます」

「特にフィリピンの看護師は優秀です。しかし、インドやフィリピンだけでは数をそろえるのが大変です。医師の数も不足しており、看護師が医師の仕事を一部肩代わりしているのが現状です。英国がEU離脱後に医薬品に関税をかけなくてもサプライチェーンの物流そのものが大停滞に巻き込まれてしまうので医薬品の供給に支障が出ます」

「10月31日に『合意なき離脱』になればインフルエンザのワクチンの供給に問題が生じるでしょう。英国には後発医薬品に強みがありますが、多くの医薬品をEU側から輸入しています。EU離脱に備えることで医薬品を備蓄しなければなりません。最も影響を受けるセクターから現場に影響が出始めているということだと思います」

今のところEU側の後発医薬品は英国に比べて最大4.5倍も高いそうですが、EU離脱で英国の後発医薬品は値上がりする恐れがあります。英国が1973年にEUの前身である欧州経済共同体(EEC)に加盟して46年、EUとのサプライチェーンは切っても切り離せないほど緊密になっています。

「離脱再延長なら野垂れ死した方がマシ」

「合意なき離脱」を議会で阻止されたボリス・ジョンソン英首相の解散動議は不発。

にもかかわらずジョンソン首相は「離脱期限を再延長するぐらいなら野垂れ死にした方がマシだ」と“単独選挙キャンペーン”に突入。有権者から「EUから離脱するなら、どうしてブリュッセルに行って交渉しないのか。お前はゲームをしているだけだ」と罵倒されました。

実の弟ジョー・ジョンソン氏はジョンソン首相との溝が埋めきれないため下院議員と閣外担当相を辞任することを表明。兄に三行半を突き付けました。

「合意なき離脱」に備える政府の非常事態計画「イエローハンマー(スズメ目ホオジロ科のキアオジ)作戦」に協力した神経内科医デービッド・ニコル氏がラジオ番組で強硬離脱を主導するジェイコブ・リース=モグ下院院内総務に「『合意なき離脱』になった場合、どれぐらいの致死率を覚悟しなければならないのか」と問いただしました。

リース=モグ氏は下院で、ニコル氏の内部告発を1998年に「新三種混合ワクチン予防接種で自閉症になる」というデタラメな論文を『ランセット』誌に発表したアンドリュー・ジェレミー・ウェイクフィールド元医師と比較、「ニコル氏はウェイクフィールド氏と同じように無責任だ」とニコル氏の医師としての信用を著しく毀損しました。

これに対して、ロンドン・スクール・オブ・ハイジーン & トロピカル・メディスンのマーティン・マッキー教授とオックスフォード大学のトリッシュ・グリーンハルフ教授は英医学誌ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルで「政府にはニコル氏の疑問に速やかに答える義務がある」と反論、ニコル氏を擁護しました。

「あの小さな点の一つが動かなくなっても何の哀れみも感じないだろう」

ロンドンでは1949年の映画『第三の男』が70年ぶりに上映されていますが、医薬品不足に悩まされた戦後のウィーンと「合意なき離脱」に突き進む英国の状況が非常に似てきていると指摘されています。

偽造ペニシリンを取引する第三の男ハリー・ライム(オーソン・ウェルズが演ずる)が観覧車から人を見下ろし「あの小さな点の一つが永遠に動かなくなっても何の哀れみも感じないだろう」という台詞を吐く有名なシーンがあります。

NHSは120万人以上を雇用し、毎年10億を超える処方箋を調剤し、1億7000万食以上を提供し、470万人の外科的入院を処理し、4億人以上の診断を行っています。がんの治療と診断に不可欠な放射性同位元素が引き続き英国に輸入されるかも保証されておらず、ごくわずかな問題であっても数百万人の生活に大きな影響を与える恐れがあります。

北アイルランドとアイルランドの間に「目に見えない国境」を復活させない解決策が見つからない限り、医薬品のサプライチェーンの問題は延々と続くのです。

マッキー教授らは「医師は職業上の徳が磨かれているなら哀れみ以上のものを感じるだろう。彼らは行動せざるを得ない」と指摘しています。

英国の一般医療評議会はガイダンスで医師の義務として、

・患者のケアを第一に考える

・患者の安全が損なわれていると思われる場合は迅速に行動する

・正直にオープンで誠実に行動する

ことを挙げています。

「合意なき離脱」なら英国の医療サービスは崩壊の恐れ

医薬品の製造とサプライチェーンはグローバル化され、相互依存関係にあります。命にかかわる医薬品は現在、EUから輸入されています。患者グループは政府に対してEU離脱の決定を行う際、患者の生命に影響を及ぼさないよう明確なコミットメントを求めています。

英国医師会(BMA)は「合意なき離脱」はNHSを崖っぷちに追いやると警告しています。NHSが患者の増加に対処するのに苦労している時期に、合意なしにEUから離脱すれば医師、患者、医療サービスの崩壊はこれまで以上に現実味を帯びてきます。

王立内科医協会(RCP)も他の16の医療機関とともに首相に書簡を送り「患者の安全を確保し、国民の健康を守ることをEU離脱交渉の中心に置くよう」求めました。これまでNHS関係者も医師たちもパニックが起きるのを避けるため、こうした発言を控えてきました。

しかし“天下の無責任男”ジョンソン首相の登場で「合意なき離脱」リスクがピークに達したため、一斉に声を挙げたのが実情です。

10月31日に「合意なき離脱」になったあとインフルエンザが大流行しただけで英国の医療はメルトダウンする恐れが十二分にあるのです。特に年末年始のNHSは例年、パンク状態です。英国で暮らす日系人6万5000人(日本の外務省調べ)ももはや他人事ではありません。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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