Yahoo!ニュース

10月31日「合意なき離脱」11月1日総選挙のシナリオを止められるのは、もうエリザベス英女王だけだ

木村正人在英国際ジャーナリスト
「合意なき離脱」を阻止できるのはエリザベス英女王だけだ(写真:REX/アフロ)

「野党は離脱期限までに総選挙を実施する機会を失った」

[ロンドン発]ドナルド・トランプ米大統領を上回る「お騒がせ(脱・真実)男」ボリス・ジョンソン氏が首相になってからというもの、上級ストラテジストに就任したドミニク・カミングス氏の名を英メディアで目にしない日はなくなりました。

そのカミングス氏が8月3日、閣僚や官僚に対し「最大野党・労働党の党首は欧州連合(EU)離脱期限の10月31日までに総選挙を実施する機会を失った」と発言。いくら下院で内閣不信任案を可決できたとしても総選挙の投票日をその後に設定できると示唆しました。

今、下院における与野党の議席差は、閣外協力する北アイルランドの地域政党・民主統一党(DUP)を加えてもわずか1議席。与党・保守党内には、ジョンソン首相とカミングス氏が主導する「合意なき離脱」に反対する下院議員が少なくありません。

下院で内閣不信任案が可決された場合、10月31日に「合意なき離脱」を実現し11月1日に総選挙を設定する「ウルトラC」が囁かれています。「合意なき離脱」は市民生活と企業活動を大混乱に陥れます。

しかし間髪入れず総選挙の投票を行えば、離脱によって英国の独立を取り戻したという恍惚感と高揚感から勝てると首相陣営は踏んでいるようです。

「テイク・バック・コントロール」という黒魔術

ジョンソン首相やカミングス氏が「合意なき離脱」に自信を持つ理由はいったい何なのでしょう。

2016年6月のEU離脱・残留を問う国民投票で「テイク・バック・コントロール(コントロールを取り戻せ)」というスローガンを考え出したのが、離脱派団体「ボート・リーブ(Vote Leave)」のストラテジストを務めたカミングス氏です。彼は「黒魔術の親玉」とも呼ばれています。

「テイク・バック・コントロール」はEU本部のあるブリュッセルに対し怨念をぶつけるフレーズです。

俺たちの税金を取り戻せ

俺たちの国境を取り戻せ

俺たちの仕事を取り戻せ

俺たちの生活を取り戻せ

俺たちの人生を取り戻せ

俺たちの文化を取り戻せ

俺たちの国家を取り戻せ

俺たちの主権を取り戻せ

俺たちの歴史を取り戻せ

EUの前身である欧州経済共同体(EEC)加盟(1973年)とそれに続く炭鉱閉鎖などのサッチャー革命で英国でも「失われた世代」が大量に発生しました。

カミングス氏は、ドナルド・トランプ米大統領の誕生や英国のEU離脱決定の裏で動いたロンドンの政治コンサルティング会社ケンブリッジ・アナリティカ(昨年5月に事実上、倒産)の関連会社AIQのデータマイニングを使って300万人の「失われた世代」の存在に気づきました。

負け犬vsエスタブリッシュメントのレトリック

筆者がこのレトリックに気づいたのは3年前のEU国民投票前に行われた残留派のデービッド・キャメロン首相(当時)と離脱派のマイケル・ゴーブ司法相(現国務相)のTV討論を取材して、離脱派が形勢を完全に逆転したと感じた時が最初です。

衛星放送のスカイニューズ・テレビのプレスルームに足を運び、当時はまだ無名だった「合意なき離脱」派のドミニク・ラーブ外相に取材しました。

「ゴーブ氏が首相を圧倒したのはピープル対エスタブリッシュメントの対立構造を作り出し、ピープルの側に立っていることを鮮明にしたためだ」というラーブ外相の解説を参考に「トランプ台風 白い『負け犬』たちが英国をEUから離脱させる!」(16年6月6日)という記事を書きました。

ラーブ氏の名前は引用しませんでした。日本では誰も知らない人物だったからです。

「負け犬」や「ピープル」「労働者」の側に立っているのは労働党のはずなのに、保守党の、しかもエスタブリッシュメントを代表するような政治家がそんなレトリックを持ち出すのに非常に違和感を覚えました。

しかし「ラストベルト(さびついた工業地帯)」を見捨てた米民主党と同じように、ネオリベラリズム(新自由主義)とEU統合を推進した労働党に見捨てられた、裏切られたと英国の「失われた世代」も恨んでいたのです。

英国のメディアは、カミングス氏が主導する離脱派の「トルコがEUに加盟する」「英国は毎週、EUに3億5000万ポンド(約445億円)を渡している」というプロパガンダを垂れ流しました。残留派はそして、カミングス氏のデータマイニングとプロパガンダの前に敗れ去ったのです。

「合意なき離脱」は止められないのか

ジョンソン首相も、カミングス氏も英国の「失われた世代」にアピールする戦略を取っています。

市民生活と企業活動を大混乱に陥れる「合意なき離脱」はしかし、絶対に避けなければならない選択です。「合意なき離脱」になれば英国、EU双方で失業者がどれぐらい出るのか想像もつきません。

EU国民投票をきっかけに、英国では労働党のジョー・コックス下院議員、北アイルランドの女性ジャーナリスト、ライラ・マッキーさんがテロで殺害されました。イスラム過激派テロで計34人が犠牲になり、北アイルランドではカトリック系過激派がうごめいています。

英国のシンクタンク、インスティテュート・フォー・ガバメント(政府のための研究所)は「ブレグジットの採決:10月31日までの議会の役割」と題した報告書で、議会の過半数が「合意なき離脱」に反対したとしても阻止するチャンスはほとんどない、時間切れになりつつあると指摘しています。

報告書のポイントは次の通りです。

(1)10月31日に英国が合意してEUを離脱できるとはとても思えない

もし仮にジョンソン首相が今の離脱協定書の一部について再交渉できたとしても、それを実行するために必要な立法措置をとる時間はほとんどない。

もしジョンソン首相が合意を取り付けたとしても、彼はおそらく新協定書を批准するため離脱期限を再延長する必要に迫られる。

(2)下院議員は「合意なき離脱」への反対を表明できても、それだけでは「合意なき離脱」を止められない

政府は「合意なき離脱」に対する下院議員の反対を無視できるだろう。原則的に「合意なき離脱」への反対票を投じるだけでは政府に行動や、国内法と国際法の変更を求めることにはならないだろう。

10月31日までに政府が成立させる必要のある法律はほとんどない。「合意なき離脱」またはそれを防ぐことに関して法案を修正したり、否決したりすることは政府の権限を制限するだけだろう。

(3)下院議員が「合意なき離脱」を止める法律をつくる機会は皆無に近い

下院議員は、政府に離脱期限の延長を模索させた今年3月の「クーパー法」と同じプロセスを繰り返したいと望むかもしれない(政府は「クーパー法」が施行される前にすでに離脱期限の延長を要求していたのだが)。

しかし政府は下院の大半の時間をコントロールしており、もし仮に下院議長の助けがあったとしても、下院議員が「クーパー法」と同じプロセスを主導する機会は限られている。予定されている休会(注1)をキャンセルしたとしても必ずしも新しい機会を作れるとは限らない。

(4)内閣不信任案は必ずしも「合意なき離脱」を止められるとは限らない

2011年議会期固定法(注2)の下での内閣不信任案の動議を取り扱うプロセスはまだ試されたことがない。もし内閣不信任案が可決されたら、14日間のうちに下院議員は「国家統合政府」の樹立を試みることができるだろう。

それに失敗したら総選挙が行われる。しかし、もし他の過半数形成が可能でジョンソン首相が辞任するのを拒んだら、何が起きるのかはっきりしない。そうなった場合、エリザベス英女王を政治に引きずり込む恐れが生じる。

(5)10月31日までに総選挙を行う時間はほとんどない

「合意なき離脱」のマンデートを確実にする意志を持つジョンソン首相もしくは野党が総選挙を求めるなら、議会は休会明けからすぐに行動する必要がある。

さもなければ総選挙は10月31日より後に行われる危険性がある。総選挙が離脱期限をまたぐ場合、官僚や閣僚らは難題に直面するだろう。

(6)2回目の国民投票を実施するには政府のサポートが必要だ

総選挙以外に、何人かの下院議員は議会の膠着状態を解消する最善策として2回目の国民投票を考えている。しかし、そのためには立法化と政府支出が求められ、その双方を実現するには政府のサポートが求められる。

また10月31日までに2回目の国民投票を実施する十分な時間がない。政府は離脱期限の延長を求めなければならなくなるだろう。

「合意なき離脱」なら英国は空中分解

英国が「合意なき離脱」に突き進んだ場合、EU残留を望んでいるスコットランドや北アイルランドは英国から離脱するリスクが膨らみます。

これは祖国に献身的に尽くしてきたエリザベス女王にとっては絶対に避けたいシナリオです。女王が元首を務める15カ国を含む英連邦に与える衝撃も計り知れません。

エリザベス女王が「抜かずの宝刀」である君主大権を例外的に行使して「合意なき離脱」直後に総選挙の投票日を設定するジョンソン首相とカミングス氏の「ウルトラC」を阻止する可能性もなきにしもあらずと筆者は考えます。

あくまで筆者の願望というか、希望的観測でしかありませんが。

(おわり)

(注1)下院の夏休みが明けるのは9月3日。例年、党大会が開かれる9月中旬から10月上旬にかけて休会になるため、離脱協定書を審議できるのは10月31日の離脱期限まで22日しかない。自由民主党の党大会期間中も審議すれば5日間、金曜日も審議に充てればさらに6日間増える。

(注2)保守党のキャメロン党首と自由民主党のニック・クレッグ党首(いずれも当時)が第二次大戦中の戦時内閣以来の連立政権を樹立した際、2011 年議会期固定法を制定。

どちらか一方の都合で下院を解散できないよう首相の解散権に事実上、制約が加えられ、5 年間の議会期の固定が原則とされた。

早期解散が行われるのは内閣不信任案が可決されて 14 日以内に次の内閣が構成されない場合か、下院の議員定数の 3 分の 2 以上の賛成で早期総選挙の動議が可決された場合に限られる。

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

木村正人の最近の記事