追悼 初代ボンド・ガールが教えてくれた「ジェームズ・ボンド」誕生の秘密
初代ボンド・ガール、ユニス・ゲイソンさん死去
[ロンドン発]人気スパイ映画シリーズ「007」ジェームズ・ボンドの初代ボンド・ガールを務めた英女優ユニス・ゲイソンさんが6月8日、お亡くなりになりました。90歳でした。
ユニスさんはシリーズ第1弾「ドクター・ノオ」や第2弾「ロシアより愛をこめて」に出演した往年の大女優です。
筆者が新聞社のロンドン特派員を最後に独立してフリーになって間もない2012年10月、ユニスさんが近くのシネマ・ミュージアムで講演した際、お話をうかがったことがあります。
筆者の暮らす同じ通りには一時、喜劇俳優チャールズ・チャップリン(1889~1977年)が暮らしていたことがあります。シネマ・ミュージアムもチャップリンが子供の頃、母親と兄弟と過ごしたランベス救貧院 (ワークハウス)を改装したものです。
救貧院とは自立して生活できない貧困者を収容して働かせていた施設のことです。どうしたら原稿料で生活していけるのかも分からず、やみくもにブログを書いていた時期の思い出だけに、ユニスさんの訃報を感慨深く聞きました。
当時はまだYahoo!ニュース個人のオーサーにもなっていませんでした。結構いい話なので当時のブログから再掲します。
「ショーン・ボンド、ジェームズ・コネリー…」
初代ボンド・ガールをご存じだろうか。1962年10月5日にシリーズ第1弾「ドクター・ノオ」がロンドンで上映されてから50年。ジェームズ・ボンドの初代ガールフレンド役を務めた英女優ユニス・ゲイソンさんが10月13日夜、ロンドンにある自宅近くのシネマ・ミュージアムにやってくると聞いて、出かけた。(初掲載は2012年10月14日)
「ドクター・ノオ」の場面はクラブのカジノから始まる。肩もあらわに深紅のドレスに身を包んだ妖艶(ようえん)な女性がショーン・コネリー演じる男とカードに興じ、名前を聞き出す。男は言葉少なに「ボンド、ジェームズ・ボンド」と答える。この苦み走ったセリフでショーン・コネリーは一夜にして世界的大スターになった。
深紅のドレスの女性、シルビア・トレンチ役を務めたのがユニスさんだった。右眉を上げる蠱惑(こわく)的な表情と厚い唇が何とも言えず、男心をくすぐった。
ユニスさんは草創期の英BBC放送テレビ・ドラマやミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」、映画で活躍した大女優。
1960年代初頭、英国の映画界は金がなく、どん底だった。
ユニスさんは「ドクター・ノオ」の映画監督テレンス・ヤング(1915~1994)からMI6(英情報局秘密情報部)の美人秘書ミス・マニーペニー役をしないかと誘われた。007シリーズは6作までつくることが決まっていたが、売れっ子のユニスさんには6作ともマニーペニー役を演ずるのは無理だった。
そこで、ユニスさんのために、ヤング監督が作り出したのが、ボンドに色っぽく迫るガールフレンドのシルビア・トレンチ役だった。
ユニスさんの深紅のドレスは印象的だが、当初はブラウンとゴールドの豪華ドレスが用意されていた。しかし、舞台のカジノもバックはブラウンとゴールドだった。ヤング監督が「これではシルビア・トレンチが埋もれてしまう」とブチ切れた。
ユニスさんは女性衣装係と代わりの衣装を探しに行くが、ロケをしていたのは田舎町。ようやく見つけたのは毛糸屋さんだった。ユニスさんが「何かドレスはない」と聞くと、店番のおばあちゃんが「ないわ。でも毛糸があるから編んでドレスをつくればいい」と答えた。
「時間がないの」と叫んだユニスさんは、店の奥に深紅のドレスがかかっているのに気がついた。しかし、ドレスのサイズは20(XL/XXL)。ユニスさんのサイズは8(S/M)。「深紅のドレスはブラウンのバックに映えるわ。これでいきましょう」と衣装係は飛びついた。当時の20ポンドをはたいて買ったドレスを衣装係はバッサリと裁断し、洗濯バサミで後ろをはさんだ。
ユニスさんは洗濯バサミが外れないようにこわごわと歩いた。そそくさと撮影現場に戻ると、待っていたショーン・コネリーがガチガチに緊張していた。「ボンド、ジェームズ・ボンド」というべき台詞を「ショーン・ボンド、ジェームズ・コネリー…」と言い間違える。
ヤング監督が陰でユニスさんに「ショーンを飲みに連れて行って、緊張をほぐしてやってくれ」と頼み込んだ。ユニスさんはショーン・コネリーを連れ出した。ショーン・コネリーはボンド役に備えて体をつくるため3カ月も禁酒したことが、余計に緊張を増幅させていた。
一杯ひっかけたショーン・コネリーからは男の色気がにじみ、「ボンド、ジェームズ・ボンド」というハード・ボイルドなセリフが見事に決まった。
ボンドが誕生した瞬間だった。
原作者のイアン・フレミング(1908~1964)はMI6の情報員だったことで有名だが、ユニスさんは「ヤング監督も第二次大戦中、英情報機関に属していた」と打ち明けた。ヤング監督はショーン・コネリーにスパイの心得を伝授し、一流の仕立屋、レストラン、ワインショップを連れて回った。ヤング監督とショーン・コネリーの二人三脚のボンド作りが始まった。
その甲斐あって「ドクター・ノオ」は大ヒット、ショーン・コネリーは世界中の女性を魅了した。英映画界も米国に進出するのに成功。英女優はそれまで飾り物扱いされていたが、ユニスさんはセクシーで大胆な演技で男を惹きつけた。
ユニスさんは次作の「ロシアより愛をこめて」にも出演する。
ユニスさんは「ショーンは本当に緊張していたわ」と懐かしく当時を振り返った。冷戦時代、ユニスさんはスコットランド地方の劇場に出演中、英語を学んでいるというロシア人女子学生からモスクワに遊びに来ないかと誘われた。ロシア人女子学生はその後、逮捕された。旧ソ連のスパイだったのだ。
ユニスさんは「007の前、ある監督に『君のその右の眉毛。何とかならないか。物言いたげ過ぎる』と言われたことがある」と言って笑いながら、右眉を上げて見せた。蠱惑的な微笑は80歳を超えて、なお健在だった。
ユニスさん、素晴らしい映画と、楽しい話を聞かせて頂いたことに感謝します。あの右眉、素敵すぎて忘れることができません。合掌。
(おわり)