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元二重スパイ父娘の暗殺未遂 「ロシアに責任の可能性大」英首相が名指しで非難 神経剤はノビチョク

木村正人在英国際ジャーナリスト
墓地を除染する化学防護服の係官(筆者撮影)

兵器レベルの毒性

英イングランド南西部ソールズベリーで、元二重スパイのロシア人男性セルゲイ・スクリパリ氏(66)と娘のユリアさん(33)が神経剤によって意識不明の重体になっている事件で、イギリスのテリーザ・メイ首相は12日、下院で犯行に使われた神経剤はかつてロシアで製造され、今もその能力を保有しているとみられる「ノビチョク(ロシア語で新参者という意味)」の一種で、兵器レベルの毒性があると断定しました。

その上で、ロシア政府が事件に直接関与したか、それとも国家施設から流出したノビチョクが部外者の手に渡って使用されたかのいずれかしか考えられず、13日までに説明するよう求めました。ボリス・ジョンソン外相は12日、駐英モスクワ大使を外務省に呼びつけて、これまでの調査で明らかになった内容を伝えました。その上で13日までにきちんとした説明が得られない場合はモスクワの犯行とみなすと通告しました。

セルゲイ・スクリパリ氏(自宅近くの食料品店提供)
セルゲイ・スクリパリ氏(自宅近くの食料品店提供)

犯行に使われた神経剤は、ソールズベリーの近くにあるイギリス軍の化学兵器の研究機関ポートンダウンで分析されました。

化学兵器の開発・生産・貯蔵・使用は1997年に発効した多国間条約の化学兵器禁止条約で禁止されています。ロシアも条約を批准しており、ジョンソン外相はロシアに対して化学兵器禁止機関(OPCW、本部はオランダ・ハーグ)にノビチョクのプログラムについて情報を全面的に開示するよう求めました。イギリス政府は13日に「コブラ」と呼ばれる非常事態の緊急会議を開いて今後の対応を協議します。

娘のユリアさん(本人のFBより)
娘のユリアさん(本人のFBより)

メイ政権はロシアの出方に応じてロシア外交官の国外追放、ロシアで開かれるサッカーW杯へのイングランド代表の参加見直しを検討する事態に発展する可能性もあります。

旧ソ連時代に密かに開発された化学兵器

ノビチョクは旧ソ連時代に密かに開発された神経剤で、またの名を「A-230」と言います。液体、固体のかたちで存在し、毒性の低い二種類の化学物質を隔離した容器で保存、混合して毒性を高める「バイナリー兵器」として使用されるそうです。北朝鮮の最高指導者・金正恩の異母兄、金正男氏暗殺に使用されたVXガスより毒性が5~8倍強いとされます。使用してから数分以内に死に至る猛毒性がある一方で、遅効性の種類もあるそうです。

墓地に現れた化学防護服の係官(筆者撮影)
墓地に現れた化学防護服の係官(筆者撮影)

ロシア軍は密かに化学兵器の使用を認められており、保有していたことが亡命者によって明らかにされています。

イギリス政府は9日から、化学兵器の処理に慣れた海兵隊など軍の部隊180人の協力を得て、スクリパリ氏とユリアさん、現場に急行した警官の計3人が入院しているソールズベリー地方病院やスクリパリ氏の自宅、2人が倒れていた公園の除染作業を開始しました。筆者はスクリパリ氏の妻や長男が葬られている墓地の除染作業を間近で見ましたが、化学防護服を着けた係官がゆっくりと墓地を歩き回る様子は非常に不気味でした。

2人が飲食したレストラン「ジジ」や大衆酒場「ザ・ミル」に3月4日に訪れた市民ら500人は当日着ていた衣服をすぐに洗うよう指示されました。

メイ首相がこの段階でここまで踏み込んでいる以上、事件の背後にはロシアがいる可能性は極めて大きいと言えるでしょう。憶測の範囲を出ませんが、事件が持つ意味をいろいろな観点から検討してみましょう。

(1)プーチン政権を支える情報機関とマフィアの結束を固める?

ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)のスパイだったスクリパリ氏が今、何をしていたのか確かなことは分かりません。英紙タイムズによると、スクリパリ氏は今でも月に1回程度はイギリス秘密情報部(MI6)のハンドラーと接触があったそうです。しかし、それは引退後もよくあることです。

3月18日に大統領選を控えるウラジーミル・プーチン大統領は2010年のスパイ交換でスクリパリ氏がイギリスに来ることになった時「裏切り者は死ぬことになる」と話したと報じられています。

元ロシア連邦保安庁(FSB)幹部アレクサンダー・リトビネンコ氏(当時44歳)が06年11月、ロンドンのホテルでお茶に放射性物質ポロニウム210を入れられ、毒殺された事件の公聴会(公開調査)で、証人の1人は「容疑者の1人が、射殺せず、毒殺だった理由について、見せしめのためと語っていた」と話しています。

公聴会で裁判官は「おそらくロシアのプーチン大統領やニコライ・パトルシェフFSB長官(当時)は承認していた」と結論付けました。

スクリパリ氏はドミートリー・メドベージェフ大統領の時代に行われたスパイ交換でイギリスに亡命しており、スクリパリ氏とその家族に残酷な死を宣告することでロシアは「裏切り者は絶対に許さない」という非情なメッセージを送ることができます。プーチン大統領が再選した後の6年間は情報機関とマフィア・ネットワークの締め付けは一層、強固になるでしょう。

グーグルマイマップで筆者作成
グーグルマイマップで筆者作成

(2)EUから離脱して孤立するイギリスは怖くないというメッセージ?

欧州連合(EU)加盟国の中にはクリミア併合とウクライナ危機をめぐる対ロシア制裁を緩和しようという動きが出ています。イギリスはEUから離脱していくため、今回の暗殺未遂事件でイギリスとEUの足並みがそろわなければ、双方を分断できる可能性があります。イギリスにとって頼みの綱はアメリカです。プーチン大統領と相性が良いドナルド・トランプ米大統領は金正恩との首脳会談を控え、プーチン大統領の協力が必要で、メイ政権に対してどう出るかは予測不能です。

(3)イギリスはロシア人亡命者よりロシア・マネーが大事?

イギリス下院内務特別委員会のイヴェット・クーパー委員長は政府に対して反プーチンの急先鋒だったロシアの政商ボリス・ベレゾフスキー氏を含め過去20年で心臓発作や自殺、事故死、自然死による14人の死を再調査するよう求めました。いずれもロシアの関与が取り沙汰されたことがありますが、真相は闇に葬り去られています。

国際金融都市ロンドンにはロシア・マネーが流れ込み、EU離脱を控えた今、英露関係が再び悪化してロシア・マネーが一斉にロンドンから引き揚げればイギリスは経済的に大きな痛手を被ることになります。ロシア・マネーを祖国に呼び戻すことができればロシア経済は浮揚し、プーチン大統領にとっては大きな追い風になります。

(4)なめ切られたイギリス

冷戦時代、ロシアとスパイ合戦を繰り広げてきたイギリスですが、EU離脱で国際社会での影響力は急落しています。アメリカやEUと違って、イギリスはロシアには全然、怖くない存在です。プーチン大統領にとって退役して地方の観光都市ソールズベリーでひっそりと暮らす元二重スパイなど取るに足らない存在です。

しかし暗殺事件を起こすことでイギリス政府を挑発して、ロシア大統領選の最中にロシアvsイギリスという対決構図を作り上げ、イギリスを見下して自らを「ストロング・マン(強い男)」として演出する絶好の機会になるでしょう。要するにメイ首相はプーチン大統領に踊らされているだけなのかもしれません。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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