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「私を見捨てないで」複雑なイギリスの深層心理 英首相官邸の飼い猫ラリーに嫌われた日系企業

木村正人在英国際ジャーナリスト
日系企業にそっぽを向いた英首相官邸の飼い猫ラリー(写真:ロイター/アフロ)

「三菱のボスがダウニング街の猫を跳び上がらせる」

[ロンドン発]イギリスに進出する日系企業20社以上の幹部が8日、「ダウニング街10番地」と呼ばれるロンドンの首相官邸にテリーザ・メイ首相を訪ねました。来年3月末に欧州連合(EU)を離脱するイギリスに、2020年末までの移行期間と、その後の、限りなく関税や障壁のない自由貿易協定(FTA)をEUと結ぶよう求めるためです。

この際、三菱重工ヨーロッパのCEO(最高経営責任者)Kazuo Okamoto氏が首相官邸の飼い猫ラリーにあいさつしようとして近づいたところ、普段は昼寝ばかりしているラリーが驚いて逃げ出す瞬間を撮らえた英BBC放送の動画が最もよく視聴されたランキング上位に入りました。タイトルは「アンハッピーなラリー、三菱のボスがダウニング街の猫を跳び上がらせる」でした。

英首相官邸の飼い猫ラリー(昨年6月、筆者撮影)
英首相官邸の飼い猫ラリー(昨年6月、筆者撮影)

首相官邸に入ろうとしたOkamoto氏が踵を返してラリーの頭をなでようとしたものの、そっぽを向かれ、バツが悪そうに手を振る様子が何とも言えず滑稽でした。EU離脱がイギリスの最大の関心事とは言うものの、イギリスの一般市民がどうしてこのニュースに大きな反応を示したのか、考えてみました。

ラリーは、首相官邸のネズミを捕まえるのが仕事ですが、働きが悪く、いつも昼寝ばかりしています。英日曜紙サンデー・タイムズによると、首相官邸は年40回も害虫駆除を要請し、29匹のネズミを退治したそうです。2016年4月に外務省にもらわれてきて「パーマストン(大英帝国の国益を守る強硬外交で知られる外相、首相の名)」と名付けられた猫は働き者で、これまでに27匹のネズミを捕まえています。

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ラリーは警戒心が強いものの、好奇心は強く、要人来訪で報道陣が多く集まる時はなぜか、首相官邸前で座ったり、うろちょろしたりしています。丸顔で小太り、動作は緩慢と、愛嬌たっぷりです。日系企業幹部に対するラリーの反応にイギリス人は果たして何を読み取ったのでしょう。

(1)ラリーに日系企業幹部を歓待してもらいたかった

故マーガレット・サッチャー首相(在任1979~90年)が日系企業のイギリス進出を促進したため、現在、日産、トヨタ、ホンダ、日立など約1,000社が活動、16万人の雇用を生み出しています。日本はイギリスにとって11番目に大きい輸出先(125億ポンド、全体の2.4%)、12番目に大きい輸入元(115億ポンド、同1.9%)です。

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日本からイギリスへの直接投資は2016年に前年の140億ドルから478億ドルに跳ね上がり、残高では1207億ドルになっています。日系企業にとってイギリスは、5億人市場のEUでビジネス展開する「玄関口」になっています。

イギリスにとって日本は大切なお客さまなのです。だから首相官邸の飼い猫ラリーにも日系企業幹部を歓待してもらいたかったという解釈がまず成り立つと思います。

(2)イギリスを追い詰める日本はやはり怖い

メイ首相はEUのジャンクロード・ユンケル欧州委員長と離脱交渉を担当するミシェル・バルニエ氏に絞られまくっています。昨年12月の第1フェーズの合意では早朝にブリュッセルに呼びつけられたため、メイ首相は午前3時半に英空軍基地に向かって出発しました。EUとイギリスの力の差を見せつける意図がありありとうかがえました。

イギリス国内でEU離脱決定を悔やむ世論が強まってきたことから、バルニエ氏からも足元を見られています。最近も「双方に本質的な不一致がある。イギリスの立場を理解するのにいくつかの問題がある」「来年3月末にEUを離脱した後、2020年末までの移行期間が与えられるのは当然と考えてもらっては困る」と釘を刺されました。

鶴岡公二駐英大使(昨年9月、筆者撮影)
鶴岡公二駐英大使(昨年9月、筆者撮影)

メイ首相との会合後、鶴岡公二駐英大使は「日本に限らず、どんな国の企業でも利益が出なければイギリスでは事業を継続できない」と発言したと報じられました。鶴岡大使は環太平洋経済連携協定(TPP)交渉を担当した貿易協定の専門家で、イギリスのEU離脱には以前から非常に厳しい見方をしています。

与党・保守党の強硬離脱(EUの単一市場・関税同盟・欧州司法裁判所から完全に離脱)派は、巨大組織EUとの交渉の難しさ、貿易交渉の複雑さを全く理解しようとしません。官僚や外交官の忠告に耳を貸さない強硬離脱派に対して、安倍政権は2016年9月、外務省のウェブサイトに次のようなメッセージを公開して衝撃を与えました。

「多くの日本企業が、イギリスを欧州へのゲートウェイとみなして積極的に投資し、欧州全体にバリューチェーンを築いてきました。日本政府はイギリスが日本企業の経済活動に与えるマイナスの影響を最小化するため責任ある対応を取ることを強く求めます」

「イギリスがEUを離脱した後、EU法がイギリス国内で有効でなくなった場合、イギリスに欧州本社機能を置く日本企業は欧州大陸に移すことを決定するかもしれません」「日本の金融機関がイギリスで取得した単一パスポートを維持できなくなる場合(略)活動をイギリスからEU内にある既存の拠点に移したりしなければならなくなります」

EUだけでなく、普段は何も言わない日系企業からも厳しく叱られて、ラリーも驚いて逃げ出したという解釈も成り立つでしょう。先の大戦で日本と戦い、戦争捕虜が旧大日本帝国陸軍から非人道的な扱いを受けたイギリスには潜在的に「日本は怖い」というイメージが残っているのかもしれません。

(3)ラリーからも造反されたメイ首相

メイ首相は閣内の強硬離脱派から突き上げられて、ふらふらの状態です。「関税同盟からも離脱しなければ辞任する」と閣僚から脅され、新聞には「ボリス・ジョンソン首相(現外相)、マイケル・ゴーブ副首相(現環境相)、ジェイコブ・リース・モグ財務相(下院議員)」の強硬離脱内閣案まで掲載される始末です。

保守党下院議員の48人が同意すれば党首の信任投票が行われるが、すでに40人が集まったと報じられています。メイ首相は首相官邸の飼い猫ラリーにまで造反されたというメタファー(隠喩)なのかもしれません。

EU離脱を後悔する声が広がる

最近、イギリス国内ではEU離脱決定を後悔する声が強まり、EU残留派(グラフの水色)が離脱派(緑色)を上回るようになりました。

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EU国民投票の再実施を求める声も強まっています。保守党は離脱派、最大野党・労働党の強硬左派ジェレミー・コービン党首は穏健離脱派ですが、本質的にはEU懐疑派なので2度目のEU国民投票が下院で承認される可能性は極めて低いでしょう。

イギリスの過半数は相変わらず「EUから離脱した方が良い」と心の奥底では思っていますが、世論調査協議会のジョン・カーティス会長によると「時間不足で、まともな交渉はできない」と離脱決定を後悔し始めています。メイ首相が強硬離脱派に突き上げられて、グランドデザインを持たないまま、「まず離脱ありき」の交渉を始めたことに問題があると考えているようです。

イギリスは明らかに強硬離脱に向かって突き進んでいます。日産のカルロス・ゴーン社長に対してイギリス政府が「EU離脱後も競争力が落ちないよう保証する」と約束したことから、友人のイギリス人バンカーによると、大手の日系企業は同じような保証をイギリス政府から得ているという観測がロンドンの金融街シティーでは流れているそうです。

鶴岡大使が警告したように、限りなく関税や障壁のないFTAをEUと結ぶことができなければ外資系企業はイギリスを去る恐れは十分にあります。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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