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「4人5脚」目標は東京パラリンピックのメダル 全盲スプリンター高田千明さん ロンドンでパラ陸上開幕

木村正人在英国際ジャーナリスト
全盲スプリンター高田千明さんと伴走者の大森盛一さん(筆者撮影)

サニブラウン「育ての親」

パラ陸上のトップアスリートたちが2年に一度、世界の頂点を目指す世界パラ陸上選手権大会が7月14~23日の日程で、ロンドンのクイーン・エリザベス・オリンピック・パークで開幕しました。

東京パラリンピックまであと3年。全盲のスプリンター、高田千明さん(32)=ほけんの窓口=は、デフリンピック(聴覚障害者の総合スポーツ大会)代表の夫と8歳の長男、五輪で入賞経験のある伴走者の「4人5脚」でメダルを目指しています。

日本代表の選手団(筆者撮影)
日本代表の選手団(筆者撮影)

今大会では約100カ国から1000人のトップアスリートが集まりました。日本からも千明さんを含め約50人の選手が参加しています。

5年前のロンドン・パラリンピックは240万枚の入場券を完売したうえ、40万枚の入場券を追加販売するなど大成功を収めました。今大会の入場券も28万枚売れ、競技は日本など35カ国で放送されます。

体をほぐす千明さんと伴走者の大森さん(筆者撮影)
体をほぐす千明さんと伴走者の大森さん(筆者撮影)

T11クラス(視覚障害部門)100メートル走と走り幅跳びに出場する千明さんは伴走者の元五輪代表選手、大森盛一(しげかず)さん(45)と一緒に15日午前、オリンピックスタジアムそばのサブグラウンドにやって来ました。

空路13時間の長旅ですっかり固くなった体をほぐし、スプリントと走り幅跳びで足と手を上げるフォームの確認を1時間余、繰り返しました。

大森さんは、100メートル走で千明さんがコースを外れないよう伴走するだけでなく、走り幅跳びでは声を出して踏み切りのタイミングを伝える「コーラー」とコーチの1人3役をこなしています。

走り幅跳びのフォームを確かめる千明さんと大森さん(筆者撮影)
走り幅跳びのフォームを確かめる千明さんと大森さん(筆者撮影)

大森さんは 92年バルセロナ五輪1600メートルリレー走、96年アトランタ五輪では400メートル走に出場、1600メートルリレー走では5位入賞を果たしました。

引退後は会社に勤めながら社会人陸上クラブの指導者として活動しています。世界ユース陸上競技選手権100メートル走、200メートル走で優勝し、2冠を達成したサニブラウン・ハキームさんは小学生の頃、大森さんの指導を受けていたそうです。

「できないことも工夫してやりなさい」と両親

千明さんは3人姉妹の長女で、5歳の頃、カルタ遊びをしている千明さんを父親が見て「目の動きがおかしい」と気づきました。まだ、カルタの文字も絵も見えていたし、5メートル離れたところからカルタの文字を聞かれても正確に答えられたそうです。

しかし、年齢を重ねるごとに網膜の中心部である黄斑に障害が生じる黄斑変性(おうはんへんせい)症と診断されました。見ようとするところが見えにくいため、千明さんは知らず知らずのうちに目線をずらして見るようになっていたのです。

千明さんは、かけっこは誰よりも早く、運動会では負けたことがありません。同じクラスの男の子に「どこ見て話してるの」と目線をからかわれると、「目の前にいるあなたと話しているのよ」と捕まえて言い返すような気の強い女の子でした。

というのも両親から「親は子供より先に死ぬ。だから今から自分でできることは自分でやれるようにしなさい。できないことも工夫してやりなさい」と厳しくしつけられていたからです。

「まだ目が見えている間に、いろいろなモノを見て、触っておきなさい。視覚以外の感覚で周りの状況を把握して自分で動けるようになりなさい」と何度も言われたそうです。

中学から盲学校に進んだ千明さん。鈴の音が鳴るトランポリンや卓球、ネットの下をくぐらせてボールを打ち合うフロアバレーなど視覚障害者用スポーツに出会いました。

中学の3年間はバレーボール。高校1年のとき100メートル走やハンドボール投げで初めて国民体育大会に出場することができました。

視覚障害は気付かないほどゆっくり進み、高校3年の時には、ほとんど見えなくなりました。専門学校を卒業して社会人の1年目。練習する場所もなく困っていた時、大森さんがコーチをしていた社会人陸上クラブのことを知ります。

クラブで「走りたいんです」と直訴すると、「本気でやるなら、やってやるよ」と指導を引き受けてくれました。

大森さんには、全盲のスプリンターを指導するのは初めての経験。お手本を見せて教えることができないので困りました。千明さんの足を手で持って動かし方を伝える文字通り「手取り足取り」の指導が始まりました。

両親の猛反対を押し切っての結婚・出産

06年、3回目の国体出場となった兵庫県での大会で、同じ東京都代表だった聴覚障害者のランナーで、後に夫となる高田裕士さん(32)と出会います。また、パラリンピックを目指していた社会人の男性選手に刺激を受け、それまで耳にすることもなかったパラリンピックを意識するようにもなりました。

猛練習を積みましたが、08年北京パラリンピックの代表選考に落選。交際を始めていた裕士さんとの子供を身ごもっていたことが分かります。

双方の両親に結婚して出産すると伝えると「障害のある2人が結婚して子供を育てていくのがどれだけ大変か分かっているの」と猛反対されました。

医師に相談すると「視覚障害と聴覚障害の2人から障害児が生まれてくる確率は1%もないよ」との返事だったそうです。

千明さんの父が結婚・出産の意思が固い娘を見て「反対すれば、ますます意固地になるだけ」と折れます。2人は入籍し、その年の暮れ、長男の諭樹(さとき)くん(8)が誕生します。

練習に余念がない各国の選手たち(筆者撮影)
練習に余念がない各国の選手たち(筆者撮影)

09年、競技に復帰しますが、15キロも増えた体重がなかなか減らず、以前の調子も戻らず、記録も伸びませんでした。12年ロンドン・パラリンピックの代表選考にも落選。

28歳。引退の2文字が頭をよぎりましたが、夫の裕士さんに「パラの選手の寿命は長いよ」「後で続けていたら良かったと思っても時間は戻ってこないよ」と励まされます。

走り幅跳びに挑戦

100メートル走、200メートル走に絞っていた競技種目に走り幅跳びを加えて挑んだ16年リオデジャネイロ・パラリンピックでついに日本代表の座を射止めます。T11クラスの走り幅跳びで決勝に進出し、自らの日本記録を更新する4メートル45の跳躍で見事8位入賞を果たします。

「リオで引退と思っていましたが、まだまだ記録が伸びそうだという手応えがありました。パラリンピックは他の大会とは感覚が全く違います。もう一度、出たい。東京パラリンピックでメダルが獲りたいと強く思うようになりました」と千明さんは言います。

千明さんと大森さん(筆者撮影)
千明さんと大森さん(筆者撮影)

東京五輪・パラリンピックに向けて施設などインフラ整備は進み、企業もパラリンピックを目指す選手を支援するようになりました。しかし、長距離を走る視覚障害者の伴走者はいても、千明さんのようなスプリンターの伴走者はなかなか見当たらないのが現実です。伴走者の大森さん、夫の裕士さん、長男の諭樹くんの「4人5脚」で千明さんはメダルを目指します。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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