「知覧からの手紙」(特攻隊員の遺書)は世界に伝わるか

2月4日、鹿児島県南九州市は市立知覧特攻平和会館に収蔵する特攻隊員の遺書の「世界記憶遺産」登録に向け、国連教育科学文化機関(ユネスコ)本部に申請書を郵送したというニュースは英BBC放送の報道番組「ニューズナイト」などでも大きく取り上げられた。

「知覧からの手紙」のパンフレット
「知覧からの手紙」のパンフレット

南九州市の霜出勘平市長は記者会見で「明日、命はないという極限の状況で隊員が残した真実の言葉を保存、継承し、世界に戦争の悲惨さを伝えたい」と話したが、このニュースをどうとらえていいのか筆者にはわからなかった。非常に困惑した。

まず、タイミングが悪すぎる。昨年末の安倍晋三首相の靖国神社参拝以来、英国をはじめ、海外では日本の「右傾化」を懸念するニュースが氾濫している。

特攻隊をテーマにした小説『永遠の0』がベストセラーになり、映画も大ヒット。著者の百田尚樹氏はNHK経営委員に選ばれて、「南京大虐殺はなかった」と発言、海外からは批判の大合唱だ。

登録申請の真意は

登録申請の真意を知ろうと、知覧特攻平和会館に国際電話をかけた。菊永克幸館長によると、特攻隊員の遺書の「世界記憶遺産」登録申請についてはその後、賛否両論があり、「頑張ってください」という激励の方が批判より多かったという。

2011年に「山本作兵衛炭鉱記録画」が福岡県田川市と福岡県立大学の共同申請によって日本で初めて「世界記憶遺産」に登録されたのがきっかけだった。

東京に住む特攻隊の遺族縁者、福島昴(たかし)さん(79)の助言を受け、霜出市長が戦後70年に当たる2015年の遺産登録を目指して特攻隊員の遺書の申請を決めたという。

12年6月、市議会に報告して、副市長を委員長に世界記憶遺産登録準備会を設置した。アドバイザーは国立博物館職員、大学教授、特攻隊員の遺族2人の計4人。

文化庁に問い合わせたら、世界記憶遺産の登録申請は自治体が単独でも行うことができるという返事だった。ただし、申請は1つの国から2件までで、3件以上になると文部科学相や外相らの諮問機関、日本ユネスコ国内委員会に差し戻される。

日本国内で4件の申請が予想され、差し戻しは確実な状態。国内委員会の推薦を得ることが最初の関門になる。

知覧特攻平和会館の入館者は通算1750万人

知覧特攻平和会館には大戦末期の沖縄戦で亡くなった旧陸軍特別攻撃隊員の遺書や写真など約1万4千点を収蔵している。1975年の開館以来、入館者は1750万人を数える。昨年度は過去最多の675校が修学旅行に訪れるなど「平和教育の場」として定着している。

登録申請したのは、本人の名前や部隊名、日付のほか、直筆と確認できた手紙や寄せ書きなど333点だ。特攻隊員の遺書の一部を紹介しよう。

「あなたの幸せを希(こひねが)ふ以外何物もない」「徒(いたずら)に過去の小義(ちょっとした義理の意)に拘(こだわ)る勿(な)かれ。あなたは過去に生きるのではない」「勇気を持って、過去を忘れ、将来に新克(活)面を見出すこと」「あなたは、今後の一時一時の現実の中に生きるのだ。穴澤(特攻隊員の名前)は現実の世界には、もう存在しない」(大学時代に将来を約束した婚約者に宛てた手紙。この隊員は婚約者から贈られたマフラーを巻いて出撃)

「父ハ スガタコソ ミエザルモ イツデモ オマヘタチヲ 見テイル ヨク オカアサンノ イヒツケヲ マモッテ オカアサンニ シンパイヲ カケナイヨウニ シナサイ」(幼児に父の心が伝わるようカタカナで書かれた遺書=当時はひらがなより先にカタカナを習った)

「さくら花 當(当)たって砕けん 愛機もろとも」「必死必中」(出撃前の寄せ書き)

特攻隊員の遺書
特攻隊員の遺書

知覧特攻平和会館の展示は悲哀に満ちている。ホームページを見ただけでも、特攻隊員と遺族の慟哭が聞こえてきそうだ。

伍井芳夫中佐には3歳と1歳の女児と、生後4カ月の男児がいた。妻は、ラジオのニュースで夫の特攻死を知り、母乳が止まってしまった。母乳に代わる食料は乏しく、男児は生後8カ月で死亡。男児宛の遺書の封筒には「物の道理が解る年頃になってから知らせよ」という鉛筆書きがあった。

少年飛行兵の精神教育を担当していた藤井一少佐は特攻を志願。夫の決意を知った妻は「私達がいたのではこの世の未練になり、思う存分の活躍が出来ないでしょうから、一足お先に逝って待っています」という遺書を残し、幼い2人の娘を連れて川に身を投げた。藤井少佐は特攻に出撃する際、娘宛の遺書を残していた。

登録申請の趣旨にはこうある。「自身が『明日は命がない』という極限の心境の状態で書いた遺書・手紙類は、他に同様の記録物は世界には見当たらず、唯一無二かつ代替不可なドキュメントで、世界史的な視点からも価値のある資料です」

特攻の語り部

知覧特攻平和会館の語り部の1人、川床剛士さんは「申請するのは特攻ではありません。生きては帰れない特攻隊員が父母への感謝、生後間もないわが子への死別の悲哀、新妻、婚約者への思いを書き残した遺書なのです」と語る。

南九州市は申請準備を2年前から進めてきた。『永遠の0』ブームや安倍首相の靖国参拝とはまったく関係がない。

軍の検閲を受けたものには「検閲」という印が押されているが、特攻隊員は本当の気持ちを綴った手紙をお手伝いの女子学生らに託したという。

川床さんは「英米の軍人は遺書を残しません。戦場から帰ってくると思っているからです。特攻隊員は死んでしまうのが明らかだから遺書を残しました」と語る。

「軍国主義の極み」――韓国や中国からは抗議を受けた。韓国の東亜日報は、知覧特攻平和会館には朝鮮人の特攻隊員らの遺書もあると指摘し、「朝鮮人隊員らの無念さを無視して自殺特攻作戦を美化している」と批判した。

冒頭に紹介したBBCニューズナイトでも特攻を知る英国の元兵士は「狂信的」という言葉を使って、イスラム過激派の自爆テロと比較した。

父は特攻の生き残り

BBCニューズナイトに出演した国際コンサルティング会社社長、中島勇一郎さんの父、豊太郎さんは特攻隊の生き残りだった。その豊太郎さんは昨年8月、91歳で亡くなった。

父が特攻隊の生き残りだった中島勇一郎さん(筆者撮影)
父が特攻隊の生き残りだった中島勇一郎さん(筆者撮影)

学徒出陣し、茨城県の百里原海軍航空隊に配属された。司令官から特攻出撃の待機命令が出たが、索敵機が戻らず、結局、出撃命令が出ないまま終戦を迎えた。8月15日は23歳の誕生日だった。

「戦争の体験がない者に話してもわからないと思っていたのか、父は特攻のことを積極的には話しませんでした。特攻隊員の遺書を世界記憶遺産に登録申請するというニュースを聞いたとき、違和感はありませんでした」

「片道だけの燃料を積み、帰ってくるのではなく、体当たりをして果てるのが特攻隊の任務です。運命を理解しながら、家族や愛する人、友人に何を伝えようとしたのかは貴重な資料だと思います」

「ややもすると日本以外の国では『カミカゼ』に対する理解は偏っています。BBCで話すときも、戦争や特攻の精神を美化するのではない、異常な状況に置かれた若者たちが家族にしたためた遺書を申請したことを強調しました」

「体当たりという特別攻撃を取ったのは決して正しいとは思わない。絶望的な状況の中で軍の中枢がそういう作戦を取ったのです。隊員たちが特攻という任務を消化していった過程の発露が隊員の手紙には含まれています」

「しかし、登録申請を発表する際、海外に対するインパクトをまったく考えていなかった」

「自分たちが良くて、相手が悪いんだという論理を貫ける国、モラル・ハイグラウンドを持っている国は世界中を見渡してもありません。だから、特攻を賛美するものではない、遺書を世界の記憶に残すことは意義深いものなんだということを発表できたら良かったと思います」

国際経験が豊富で、英語も日本の外交官以上に流暢な中島さんは安倍首相の靖国参拝には否定的だ。「国益を考えると言いながら、まったく逆のことをしている。自己矛盾だ。相手があっての国益だ」という。

安倍首相は日本を復活させるための経済政策アベノミクスとは違うアクセルを踏み始めたという懸念を中島さんは抱いている。

特攻の真実はどこに

そもそも、世界記憶遺産の登録申請を言い出した東京在住の遺族縁者、福島昴さんはどう考えているのか、知りたくて国際電話をかけた。

福島さんは安部正也大尉(戦死で2階級特進)の遺族縁者だ。

安部大尉は昭和20年4月29日、鹿児島県の知覧基地から出撃。途中、エンジンの不調で、鹿児島から南へ60キロ離れた黒島近くの海に着水した。島には同じように不時着した特攻隊員が大火傷で苦しんでいた。

「火傷の薬を届けたい」「もう一度出撃して任務を達成したい」と、島の若者と小さな船で本土に戻った。安部大尉は5月4日に再出撃し、途中、黒島上空で火傷薬や処方箋を投下。自らは沖縄の海に散ったが、黒島で治療した特攻隊員は戦後を生きることができた。(知覧特攻平和会館HPと福島さんの話より)

福島さんは安部大尉の姉から手紙やハガキ50通が入った段ボール箱を受け取った。安部大尉が残した遺品を手掛かりに7年間、関係者を訪ねて、2011年に『二度死んだ特攻兵 安部正也少尉の魂』を自費出版した。

「特攻は風化しています。知っている人がだんだん少なくなっています。本当の話ではなく、いい加減に書かれたものがたくさん出ています。本当の特攻とは違ったものになっています」

「真実を伝えなければなりません。特攻遺品はいずれ朽ち果てます。永久保存できるようにしなければならないと思って、南九州市に世界記憶遺産の登録申請を提案しました。特攻の真実とはドラマ化されたものではなく、特攻隊員が残した遺書なのです」

「翼の上で書いた遺書もあり、人間としての最期の言葉は大切にしなければなりません。死ぬ直前に書いたものだから、ウソは書いていません。『天皇陛下万歳』と書いた遺書もありますが、多くは母親に残した別れの言葉なんです」

「負け戦争になった場合、特攻までやるようになる、特攻を見て戦争を起こさないようにしよう、墓標のようなものを立てたらどうだろうと思っています。原点を残さないと、ウソが残ってしまう。これから50年、100年、原点だけは守り通さなければなりません」

「登録申請について、亡くなった特攻兵も喜んでいるだろうと思います。これは『二度と悲惨な戦争を起こしてはならない』という知覧からの手紙なのです」

福島さんは慰霊のため靖国神社を訪れる。安部大尉のお骨もお墓もないためだ。安倍首相の靖国参拝とはまったく別のものだ。「一国のリーダーが元きた道を繰り返すというのはありえないことだ」と福島さんはいう。

人間無視の思想

日本人には、まず、特攻隊の遺書を読んでほしい。そこから特攻という「人間無視の思想」(高木俊朗著『陸軍特別攻撃隊』)を読み取ってほしい。「正常と異常の間」で、「生きることと死ぬこと」の間で若き特攻隊員が何を思ったのか、自分の頭で考えてほしい。

フィリピンの特別攻撃で、軍司令官の冨永恭次中将は軍刀を天に突きかざして出撃命令を出し、特攻機を1機また1機と見送った。冨永中将は太平洋戦争の開戦直前、装備不足を訴える兵務局長を「竹槍でやるのだ」と一蹴した人物だ。特攻の出撃命令でも「諸君だけを死なせるのではない。この冨永も最後の1機で、必ず突入する。どうか、安んじて出撃してもらいたい」(『陸軍特別攻撃隊』より)と繰り返した。

結局、冨永中将はフィリピンを脱出して台湾に後退した。これについて「敵前逃亡」という批判がある。冨永中将は満州で終戦を迎え、10年間シベリアに抑留されたが、日本に帰還。5年後に死去したが、回想の手記を残した。

こうした回想録こそ「ウソ」の最たるものだろう。今、安っぽい愛国心をあおるのは、フィリピンの滑走路で軍刀を掲げた冨永中将と同じぐらい愚かな行いである。

戦後、東京裁判で裁かれたことを除くと、すべての戦争責任が「あいまい」というより「うやむや」にされてしまった。

特攻隊員の遺書にこそ「戦争の真実」があるというのが福島さん、中島さん、南九州市の霜出市長の主張だ。

来年は戦後70年。日本人は「戦争の真実」を見つめ、国を守ること、平和を守ること、生きることと死ぬことと、他国との交わりを真剣に考えなければなるまい。私たちは「知覧からの手紙」の真意をしっかり胸に受け止め、世界に伝えることができるのだろうか。

(おわり)