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「死の泰麺鉄道」戦争の真実と和解(5)謝罪

木村正人在英国際ジャーナリスト

1998年1月、天皇、皇后両陛下のご訪英を5月に控え、橋本龍太郎首相の「日英はともに進まなければならない」と題した寄稿が英大衆紙サンに掲載された。

村山談話と同じ「反省とおわび」の表明、日英の旧軍人による東南アジアでの合同慰霊祭開催、元捕虜やその家族の訪日事業の拡大を盛り込んだ内容で、サン紙は「日本がサンに謝罪した」と報じた。

日本の首相ともあろうものが、3面に女性のトップレス写真を掲載する英国のタブロイド紙にわびを入れるとはという声もあった。

サン紙を選んだのは、ブレア英首相の懐刀で、大衆紙デーリー・ミラー出身のアリスター・キャンベル氏だった。キャンベル氏は大衆紙の見出しを踊らせ、世論を操縦する悪魔的な才能を持っている。

それでも元捕虜の間に渦巻く反日感情は収まらなかった。同年5月、訪英された天皇、皇后両陛下がバッキンガム宮殿に向かわれる歓迎式典の途中、沿道で元捕虜たちの一団が両陛下の馬車列に背を向けてブーイングをしたり、日の丸を燃やしたりした。

日本の国旗に火をつけた元捕虜ジャック・カプラン氏(故人)は「旧日本兵がなぜ捕虜に過酷な体罰を加えたり、虫けら同然の扱いをしたりしたのか、尋ねてみたい」という思いに駆られていた。

英国内にはカプラン氏らの行為を「女王と政府の賓客に無礼」と批判するとともに、「後ろを振り返るのではなく、前を向こう」(サー・ヒュー・コータッツィ元駐日英国大使)という声も広がった。

コータッツィ氏は筆者に「当時は日英関係を強化することが現実的で、天皇の戦争責任を問うことはできないことを英国は受け入れる必要があった」と振り返る。

ブレア政権は2000年、元捕虜や遺族である配偶者に1人当たり1万ポンドの特別慰労金を支給した。

日英戦後和解に取り組む恵子ホームズさんの尽力で02年、カプラン氏は日本訪問。「日本の狂信的な愛国者に殺されるのではないか」と内心では怯えていたカプラン氏は「戦争で見た旧日本軍とはまったく違う日本人がいる」ことを知って、わだかまりがとける。

連合軍の戦死者は7%。日本軍の捕虜になった英兵は約5万人、その死亡率は25%にのぼった。ドイツ軍の捕虜になった英兵の死亡率5%に比べて突出しているのが一目瞭然だ。

日露戦争で降伏したロシア人の敵将に帯剣を許した水師営の会見、第一次大戦でドイツ人捕虜を人道的に扱った坂東捕虜収容所(徳島県)の評判は世界に知れ渡っていただけに、旧日本軍の捕虜虐待は歴史の汚点となった。

しかし、泰緬鉄道建設にかかわった旧日本軍も「お国のため」と信じて突貫工事を強行し、犠牲を増やしたのだ。

旧日本軍の捕虜虐待については、防衛省防衛研究所の立川京一・戦史研究センター戦史研究室長の「旧軍における捕虜の取扱い 太平洋戦争の状況を中心に」『防衛研究所紀要』第10巻第1号(2007年9月)に詳しく記されている。

ビルマ戦線の旧日本軍の戦死者は60%。泰麺鉄道関係のBC級戦犯は処刑されているだけに、「旧日本軍の方が捕虜よりも多く死んだ」「同じ日本人というだけで、どうして謝罪しなければならないのか」「大英帝国と大日本帝国という帝国主義の戦争だった」という思いが一部の日本人には強く残っているようだ。

しかし、元捕虜が日本に突きつけた怒りは「戦争には戦争のやり方がある。どうして、あれほど残酷に、降伏した捕虜を扱わなければならなかったのか」という一点に尽きる。

映画『The Railway Man(邦題:レイルウェイ 運命の旅路)』で描かれた心的外傷後ストレス障害(PTSD)は、英国ではアフガニスタン帰還兵が訴える今日的な問題として注目されている。

主人公の元捕虜エリック・ロマックスさんが苦しめられた水責めの拷問ウォーターボーディングは、ブッシュ前米政権によるテロとの戦いで国際テロ組織アルカイダ容疑者を尋問するために使われた。

一方、日本は1995年の村山談話を土台として中国や韓国との戦後和解を進めようとしたが、逆に領土・歴史問題で双方のナショナリズムに火がつき挫折、状況は最悪の状態まで悪化した。

韓国では民主化が進み、軍事・軍人出身政権下での対日関係は否定された。中国では国家資本主義が導入され、中国共産党の正統性を維持するため、「反日・愛国教育」が強化された。

経済的に日本と中国・韓国は競争が過熱し、ゼロサムの「敵対関係」となってしまった。海をはさんでいるとはいえ、お隣同士だけにちょっとしたことでナショナリズムが燃え上がる。

政治家やメディアの極端な発言や論評だけが互いの言語に訳されて報道されるため、ナショナリズムの火に油を注ぐ悪循環に陥っている。

89年、冷戦の象徴だったベルリンの壁は崩壊したが、日本では右と左の対立という「日本国内のベルリンの壁」が残ってしまった。自民党保守派と旧社会党系・共産党、メディア間の対立が激しさを増し、国内世論のコンセンサスを得るのは不可能になっている。

これに対して、日英戦後和解は、日英の経済関係がお互いに「ウィン・ウィン関係」にあったこと、当時のブレア首相、橋本首相に日英関係を良くしようという強い政治のリーダシップがあったことがプラスに働いた。

日本人ボランティアの人材も豊富で、元捕虜も「このまま恨みを抱いて死にたくない」「この恨みを子供の世代に持ち越すわけにはいかない」という思いを抱いていた。

日英戦後和解にかかわった沼田貞昭・鹿島建設顧問(94~98年、在英日本大使館特命全権公使)は「戦後和解は積み木を一つひとつ積み上げていく作業です。英国との関係も完全に出来上がったとはいえません」と振り返った。

その上で「お互いのナショナリズムのぶつかり合いになると二進も三進もいかなくなりますが、これまで積み上げてきたものを途中からぶっ壊してしまうというのは非常に危ないなと思っています」と日本と中・韓の関係に表情を曇らせた。

(つづく)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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