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W杯初出場ボスニア 和解への挑戦

木村正人在英国際ジャーナリスト

夢舞台マラカナン

2014年ブラジルで開催されるサッカーの祭典、ワールドカップ(W杯)の1次リーグ組み合わせ抽選会が6日、同国北東部コスタドサウイペで行われた。

旧ユーゴスラビア諸国の1つ、ボスニア・ヘルツェゴビナは唯一の初出場国。20万人もの死者を出した1990年代のボスニア内戦の傷跡は今も生々しく残っている。

98年W杯フランス大会に初出場した旧ユーゴ諸国のクロアチアは3位に入る大活躍を見せ、今年7月、欧州連合(EU)加盟を果たした。ボスニアはクロアチアに続くことができるのか。

ボスニア初出場の舞台裏には、祖国を分断する民族と宗教の壁を乗り越えようとする世代を超えた「イレブン」の飽くなき挑戦があった。

「行くぞ、ボスニア!」

W杯欧州予選グループGを1位で通過したボスニアの原動力は30得点中、10点をたたき出した長身FWエディン・ジェコ選手(27)だ。

現在、英イングランド・プレミアリーグの強豪マンチェスター・シティで活躍するジェコ選手はソーシャルメディアのツィッターで「初のW杯をマラカナン・スタジアムでプレーできるなんて夢のようだ。待ちきれないよ。行くぞ、ボスニア!」とつぶやいた。

かつて20万人を収容した世界最大級のサッカー場マラカナン・スタジアムは50年W杯ブラジル大会の主会場になり、優勝のかかった試合でブラジルはウルグアイに逆転負けを喫し、「マラカナンの悲劇」と記憶されている。

来年のW杯に備えて改装され、収容人員は7万3531人。ジェコ選手はツィッターに新スタジアムのリンクを張り付け、こみ上げてくる感動を表現した。

アスミル・ベゴビッチ選手(26)=ストーク・シティ=もイングランド・プレミアリーグ屈指のGK。ツィッターに「組み合わせ抽選が頭の中を駆け巡っている!第1試合はマラカナン。楽しみでしょうがない。大変な瞬間だ。さあ、やるぞ!」と書き込んだ。

初戦の相手はFIFA(国際サッカー連盟)ランキング3位の強豪アルゼンチン。残りの対戦国は格下のイランとナイジェリアだ。ボスニアの決勝トーナメント進出への期待は大きく膨らんでいる。

内戦世代

ジェコ選手も、ベゴビッチ選手も少年期にボスニア内戦を経験した世代だ。

旧ユーゴ崩壊の過程で、ボスニアは92~95年、「ボスニアック」と呼ばれるイスラム教徒、セルビア正教徒のセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人が血で血を洗う内戦を繰り広げ、死者20万人、難民・避難民250万人以上を出した。

旧ユーゴは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と言われるモザイク国家だったが、強力な指導者ヨーシプ・ブローズ・チトー(1892~1980年)の死去とともに国民国家としての求心力を失った。

ベルリンの壁崩壊は旧ユーゴでは不幸にも、イスラム教徒とセルビア人、クロアチア人の民族主義と殺戮の記憶を呼び覚ました。

希望灯したサッカー

サラエボの体育館で練習する少年サッカーチーム「ブバマラ」(筆者撮影)
サラエボの体育館で練習する少年サッカーチーム「ブバマラ」(筆者撮影)

ボスニアの首都サラエボはセルビア人勢力に包囲され、200万発の迫撃弾が撃ち込まれた。内戦の最中、サラエボの体育館で「ブバマラ(テントウ虫の意味)」と呼ばれる少年サッカークラブが誕生した。六角形と五角形を組み合わせたサッカーボールのデザインはテントウ虫の背中に似ている。

それが「ブバマラ」というクラブ名の由来だ。ボスニア代表のゴールゲッター、ジェコ選手もブバマラに集まってきた少年の1人だった。

「ジェコ選手の才能はひと目見たときから明らかでした。将来、偉大なプレイヤーになると確信していました。ジェコ選手はその後、プロのユースチームに移籍しました。ブバマラからは現代表DFのエルビン・ズカノビッチ選手も巣立っています」

内戦の最中、少年サッカーチーム「ブバマラ」を創設したパシッチ氏(筆者撮影)
内戦の最中、少年サッカーチーム「ブバマラ」を創設したパシッチ氏(筆者撮影)

2年前、サラエボを訪れたときに知り合った旧ユーゴ代表の快速ウィング、現在はサラエボで画廊を経営するプレドラッグ・パシッチ氏(55)に電話をかけると、うれしそうな声が返ってきた。パシッチ氏はブバマラの創設者だ。

筆者も少年サッカーの指導者を4年間した経験があるので、ブバマラの練習風景を見学させてもらった。運動能力に秀でた子供たちが真剣な眼差しで練習に取り組んでいた。

サッカーだけが成功の道

ボスニアは今も失業率44%超、月の平均収入が350ポンド(5万9千円)程度という貧しい国だ。少年たちにとってサッカーが唯一の成功への道と言っていい。

「ジェコのようにお金の稼げるスター選手になって」。目の色を変えて、コートサイドで子供たちに指示を出す親たちの入れ込みようは相当なものだ。

セルビア人のパシッチ氏は内戦が勃発したとき、イスラム教徒の妻と結婚していたが、夫婦関係は破綻した。3つの民族と宗教、文化が混ざり合ったサラエボを愛していたパシッチ氏は2人の娘とともに地下室生活を余儀なくされた。

パシッチ氏は絶望的な状況の中で子供たちに希望を与えたかった。「夢中になってサッカーボールを追いかければ、子供たちは笑顔を取り戻せる。サッカーが民族や宗教の壁を取り除いてくれる」

パシッチ氏はサッカーとともに成長してきた。バラバラに引き裂かれたボスニアのためにできることはと自問したとき、サッカーしか思い浮かばなかった。それがブバマラを始めた動機だった。

しかし、パシッチ氏は内戦の最中、目の当たりにした絶望についても初めて口を開いた。パシッチ氏は強豪クラブ、FKサラエボに所属していた。

民族虐殺指揮したコーチ

民族大量虐殺などの罪に問われているセルビア人勢力の政治指導者ラドバン・カラジッチ被告(68)=旧ユーゴ国際戦犯法廷で公判中=はあまり知られていないが、FKサラエボで心理コーチを担当していた。

「内戦が始まる前、カラジッチはまったく別人でした。彼の専門はスポーツ心理学で、常々、勝利の心理学を私たちに説いていた。イレブンに1つのチームになって戦えと指導していたんです」

「成功したかったら、イレブンが一体になれと。政治の世界に足を踏み入れてから、カラジッチはセルビア人とセルビア正教のことしか語らなくなってしまった。セルビア人がイスラム教徒とクロアチア人を殺戮するなんて、想像もできなかった」

サラエボのグラウンドに林立する墓標(2年前、筆者撮影)
サラエボのグラウンドに林立する墓標(2年前、筆者撮影)

サッカーは内戦勃発前、各民族の政治指導者によるプロパガンダの手段として悪用された。タダで入場券をばらまき、サッカー場で他の民族への憎悪をかき立てるアジ演説が行われた。

「われわれが民族の権利を守ってやる。われわれの運動を支援しないと、多民族に追いやられ、2級市民扱いされるぞ」

フーリガンは暴徒化し、民兵組織に早変わりして殺戮の発火点となった。内戦終結後、いくつかのサッカー場はおびただしい遺体を埋葬する墓場に変わり、墓標が林立している。

オシムの功績

ボスニア・サッカー連盟を立て直したオシム氏(筆者撮影)
ボスニア・サッカー連盟を立て直したオシム氏(筆者撮影)

ボスニア・サッカー連盟は民族ごとに3つに分裂していたが、元日本代表監督イビチャ・オシム氏(72)が正常化委員長に就任し、1つにまとめあげた。民族対立と腐敗を克服するため運営の透明性を高め、W杯初出場を成し遂げた。

オシム氏を支える元代表主将ハジベジッチ氏(筆者撮影)
オシム氏を支える元代表主将ハジベジッチ氏(筆者撮影)

クロアチア人のオシム氏はボスニアの和解を後押しするため、常日頃から「私はボスニア国民」と強調、2年前、筆者のインタビューに「この幸せがいつ壊れるかと考えると怖くなる」と内戦の悲しみを振り返った言葉が忘れられない。

ボスニア・サッカー連盟でオシム氏を支える元代表主将で元代表監督のファルク・ハジベジッチ氏(56)は、「3民族のうちどの民族の出身ですか」という筆者の質問に「私は人間だ」と言い切った。

オシム氏の周りには「ボスニアは1つ」という強い思いを持つ世代を超えたイレブンが団結している。

しかし、政治体制はセルビア人共和国とその他のボスニア連邦に分裂したままで、3民族の代表が8カ月交代で幹部会議長(元首)に就任している。

筆者の取材に応じるボスニア幹部会イスラム教徒代表のイゼトベゴビッチ氏
筆者の取材に応じるボスニア幹部会イスラム教徒代表のイゼトベゴビッチ氏

今年10月末、世界イスラム経済フォーラムに参加するためロンドンを訪れた幹部会イスラム教徒代表のバキル・イゼトベゴビッチ氏を直撃した。

同氏は「ボスニアは1つに結束しなければならない。オシムは人々の尊敬を集めているので、ボスニア・サッカー界の結束をスピードアップすることができた。オシムは特別な存在だ。ブバマラのパシッチ氏の活動も知っている。サッカーは民族間の緊張を和らげ、和解を促進できる。統治機構の統合も進んでいるが、数十年の歳月が必要だ」と政治統合の難しさを強調した。

セルビアのイビツァ・ダチッチ首相(筆者撮影)
セルビアのイビツァ・ダチッチ首相(筆者撮影)

セルビアのイビツァ・ダチッチ首相はロンドンで講演した際、「オシムの偉業についてどう思うか」という筆者の質問に、「私は旧ユーゴ諸国など地域のサッカーリーグの結成を提案している。地域のサッカーリーグのレベルは惨憺たるものだ。良い選手は海外でプレーしている。サッカーだけでなく、他分野でも地域のレベルを上げるには、旧ユーゴ諸国がお互いに助け合うことが必要だ。周辺国と良い関係を築くことがわれわれの利益になる」と強調した。

8人からスタートした代表チーム

サッカーのボスニア代表は文字通りゼロからの出発だった。後にセレッソ大阪監督を務めたフアド・ムズロビッチ氏(68)が95年11月に初代代表監督として代表チームを招集したとき、8人しか集まらなかった。

ムズロビッチ氏はアシスタントコーチに「もし11人そろわなかったら、私たちもプレーしよう」と悲壮な決意を表明した。代表選手は何とか11人集まったが、ユニフォームは試合会場近くのスポーツ店で調達した。

ボスニア内戦を終結に導いたデイトン合意から18年。戦禍を逃れ、また、機会を求めて国外に脱出したサッカー少年たちは祖国再建のためにボスニア代表として舞い戻ってきた。

GKベゴビッチ選手はU20カナダ代表だったが、A代表ではボスニアを選択。各年代でドイツ代表としてプレーしてきたDFセアド・コラシナツ選手(20)もボスニア代表を選んだ。

もともと身体能力が高い選手たちの才能が海外で磨かれ、各国から多様なサッカーをボスニアに持ち帰って融合させ、世界に通用する「黄金世代」を築いた。

「相手より1点でも多く取れ」というサフェト・スシッチ代表監督に攻撃的サッカーを吹きこまれた「ズマイェビ」(ボスニア代表の愛称で、竜という意味)がサッカー王国ブラジルでどんな戦いを見せるのか。

日本のファンの皆さんにも是非、日本のサッカー育成のため尽力してくれたオシム氏への感謝を込め、ボスニアの「竜」たちの戦いに温かい声援を送ってほしい。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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