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乖離する「実名報道」の論理と「報道被害」の実態

木村正人在英国際ジャーナリスト

アルジェリア人質事件をめぐって、「実名報道」を求める報道機関と集団的過熱取材による「報道被害」を懸念する市民感覚の乖離が改めて浮き彫りになっている。

個人情報保護法の施行などで「匿名発表」が当たり前になってきたことや、「報道被害」をなくすための報道機関の取り組みが十分でなかったことが背景にある。

行政機関や警察の「匿名発表」の実態と日本新聞協会の見解について、NHK放送文化研究会の奥田良胤氏が2007年にまとめたリポートがある。

奥田氏は、個人情報保護法の全面施行や犯罪被害者等基本計画の策定に伴い行政機関や警察などによる「匿名発表」が増えていると指摘し、新聞協会の2005年5月の調査では、警察による被害者の「匿名発表」は28都道府県、被疑者の「匿名発表」は20都道府県、事件・事故そのものの未発表は27都道府県にのぼったと報告している。

中には事実を歪めて発表していたケースもあった。

息子が父親を監禁し暴力をふるった事件で、警察は被害者を匿名で発表し、息子を父親の知人とウソの説明をしていた。ある恐喝未遂事件で警察は被害女性を匿名にしたうえ、年齢をごまかしていた。

アルジェリア人質事件のように、以前から海外の事故・災害で外務省が日本人犠牲者の名前を公表しなかったこともあったと奥田氏は報告している。

新聞協会は、「匿名発表」を見過ごしていると、やがて意図的・組織的な隠ぺい、ねつ造に発展する恐れがあるとして、「知る権利」に応えるには「実名発表」が必要だと主張している。

こうした実名報道の論理は、読者や視聴者の信頼を完全に失ってしまっている。これまで、テレビ報道でカメラクルーやマイクを持った記者が集団で被害者や遺族を追い回す様子が繰り返し伝えられてきた。そして今回、「実名報道」の論理はメディアの商業主義を覆い隠す方便に過ぎないと痛烈な批判が寄せられている。

週刊朝日による橋下徹大阪市長の出自報道について、親会社である朝日新聞社の第三者機関「報道と人権委員会」が調査したように、大手新聞社は報道をめぐる苦情に対応する第三者機関を設けている。

「メディア・スクラム」と呼ばれる集団的過熱取材について新聞協会編集委員会は見解をまとめ、すべての取材者が最低限、順守しなければならないこととして以下の3点を挙げている。

一、 いやがる当事者や関係者を集団で強引に包囲した状態での取材は行うべきではない。相手が小学生や幼児の場合は、取材方法に特段の配慮を要する。

二、 通夜葬儀、遺体搬送などを取材する場合、遺族や関係者の心情を踏みにじらないよう十分配慮するとともに、服装や態度などにも留意する。

三、 住宅街や学校、病院など、静穏が求められる場所における取材では、取材車の駐車方法も含め、近隣の交通や静穏を阻害しないよう留意する。

こうした注意事項が報道被害を解消していないことは、読者や視聴者からの厳しい反応を見れば明らかである。

また、NHKと民放連でつくる放送倫理・番組向上機構の放送人権委員会は2007年、運営規則に「集団的過熱取材(メディア・スクラム)」に対応する条項を明文化している。

同年12月に放送人権委員会に招かれたNHK報道局社会部長の柳辰哉氏(当時)は「人々の信頼を失うと取材がしにくくなる」との考えを示し、「(メディア・スクラムに対する)早めの対応、現場を見る、社会人としてのマナーを守れ、を徹底しようとしている」と説明している。

英国では1991年に新聞業界を中心とした自主規制機関「報道苦情処理委員会」(PCC)が設置され、活字メディアに対する苦情に対応してきた。しかし、メディア王ルパート・マードック氏の大衆日曜紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」による違法な組織的盗聴事件について、PCCは「新聞社はシロ」と判定していたことから、批判を浴びた。

PCC側は報道倫理に違反した者に対し罰金を科したり損害賠償の支払いを命じたりする権限がなかったとして、解散を決めた。「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」をめぐって報道倫理のあり方を調査していたレベソン委員会の提言を受け、より実行力を伴った自主規制組織を新設する方向だ。

報道は社会の信頼の上に成り立っている。しかし、報道被害に対するメディア側の自主規制は十分ではなく、社会の信頼を失っている。

メディア・スクラムなどの報道被害に形だけの対応を繰り返し、問題の核心を直視してこなかった大手メディアの独善性、公共の電波を使いながら、報道・娯楽・教養のバランスも考えず、視聴率優先の商業主義に走ってきたテレビ、欧米の新聞社に比べてインターネットの対応を怠ってきた大手新聞社の怠慢が、メディア批判となって一気に噴出している。

こうしたことへの対応を抜きにして、日本のメディアは前に進めなくなっている。そうした批判を踏まえた上で、なお僕は「実名報道」を支持したい。

アルジェリア人質事件では、遺族はみな「匿名」を望んでいると発表されながら、なぜか、「実名」での取材に応じている遺族の方々もおられる。

僕は砂漠のプラント現場を取材した経験はないが、極寒の発電プラントを取材したことがある。大手プラント会社の社員は1~2人で後は地方からかき集められた下請けの作業員だった。今回、犠牲になられた方はすべて建設プラント大手、日揮の正社員だったのだろうか。リスク回避のためテロ対策の十分な訓練を受けていたのだろうか。英語やアラビア語をどこまで理解していたのだろうか。きちんとしたセキュリティー・オフィサーは同行していたのだろうか。保険はどうなっていたのだろうか。

いろんな疑問が浮かんでくる。どうして7人はアルジェリアで死ななければならなかったのか。

英石油大手BPではセキュリティー・オフィサーが殉職し、遺族が「危険を承知で赴いた任務で作業員の盾となり命を落としたので、本人も本望だったと思います」と語っていた。

悲惨な戦争が繰り返され、ナチスによるユダヤ人大量虐殺、ソ連の独裁者スターリンの粛清、旧ユーゴで起きた民族対立などの傷跡が残る欧州諸国を旅すると、慰霊碑には自由のために戦った戦士や大量虐殺の犠牲者の名前が一人ひとり刻まれている。

ポーランドではかつて共産主義政権に抗議して亡くなった活動家の墓が取り除かれていた。当時の体制にとって抗議活動が起きたことや体制側治安部隊の弾圧で市民が命を落とすという出来事は歴史から抹消しなければならない事実だったからだ。

「実名報道」の意義を突き詰めて考えるとき、私たちの自由が多くの人々の犠牲によって獲得されてきたことを痛感する。「匿名発表」の流れが真実を語る権利を損なうことを恐れるのは、許されない独善であり、杞憂なのだろうか。

明治維新、戦後復興と日本は社会の土台を築かないまま欧米の仕組みを取り入れてきた。戦後60年以上が経過し、日本ではこれまで当たり前だったことが機能しなくなっている。新聞協会は、まず社会の不信感を取り除くため、報道被害への対応の透明性と客観性を高める必要がある。そうした自己改革を抜きにして「実名報道」の意義をいくら強調しようとしたところで、だれ一人として耳を貸してくれないだろう。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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